コンテンツへスキップ

今週の親仁ギャグ・2020年2月23日(日)~2月29日(土)

●秀吉(1537年3月17日~1598年9月18日)の最大の不幸である後継者問題の関係者と出来事について時を追って調査してみましょう。
①寧々(高台院・北政所・?~1624・杉原家定の実妹・浅野家養女)が秀吉に嫁ぐ(1561年8月・当時では珍しい恋愛結婚)。
②秀吉の近江長浜城時代、秀吉と側室との間に第一子・羽柴秀勝(石松丸)が誕生。しかし1576年11月4日、2歳から6歳で死没。
③(小早川)秀秋(1582~1602・秀吉の正室寧々の兄の5男)が秀吉の養子となる(1585年)。
④茶々(淀殿・信長の末妹、お市の方と小谷城主、浅井長政の長女・1569?~1615年6月4日)が秀吉の側室となる(1588年頃)。
⑤茶々との間に鶴松誕生(1589年7月9日)
⑥秀吉の天下統一(1590年)
⑦鶴松死没(1591年9月22日)
⑧鶴松の死後、豊臣秀次(甥=秀吉の姉の長男・1568~1595)が秀吉の養嗣子となり、文禄の役(1592年5月24日~1593年8月5日)開始前に豊臣家第2代関白となる。
⑨茶々に秀頼誕生(1593年8月29日)
⑩秀秋の小早川家(隆景)への養子縁組成立(秀頼誕生により豊臣家相続候補から外れ、黒田官兵衛=孝高の提案進言)(1594年)
⑪秀次の高野山青巌寺への蟄居、そして切腹(1595年8月20日)
⑫秀吉死没(1598年9月18日)
⑬小早川秀秋、関ケ原の戦い(慶長5年9月15日=1600年10月21日)で家康(東軍)に寝返る。
⑭1602年12月1日、アルコール依存症による内臓疾患で小早川秀秋が死没。
⑮1615年6月4日、大坂夏の陣にて秀頼と茶々が自決(豊臣家完全滅亡)。
⑯1624年10月17日、寧々(高台院)死没。
つづく。2月24日。

先頭へ