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今週の親仁ギャグ・2019年12月1日(日)~12月7日(土)

間宮林蔵の「親仁」的な最終文・・・・・・「樺太へゆくぐらいのことなら、むかしから日本人は行っている。それに、欧州の探検家や地理学者は樺太が半島であると考えていたが、日本人はむかしから島であることぐらいは知っていた。」(司馬遼太郎・「街道をゆく・38」・p278・朝日文庫)・・・・・・こんなことをいわれたら、間宮林蔵の努力や業績なんて身も蓋もないが・・・・・・そうだったのでしょう。もうひとつ、間宮林蔵は樺太を一周したわけではありませんから・・・・・・どうして「島」であると確信したのか・・・・・・少し疑問ですが。とまれ、「ここは日本国である」と標柱を立ててもらっていたら・・・・・・それこそ正に真の偉人になり、金字塔を打ちたてたのですが。12月7日。

●ついでながら龍馬を支援した人物たち・・・・・・長崎では小曾根乾堂(1828~1885・事業家・書家・文人画家・篆刻家)に大浦慶(1828~1884・女性・日本茶輸出先駆者)、山口(下関)では白石正一郎(1812~1880・清末藩領竹崎の荷受問屋で大年寄・勤王の志士たちを支援・文久2年(1862)、土佐を脱藩した龍馬は、最初に白石邸を目指した・小倉戦争の際、高杉晋作とともに、白石邸を訪問)と伊藤助太夫(1830~1872・長府藩領下関の本陣主で大年寄・慶応元年(1865)以来、龍馬の止宿先・慶応3年(1867)の春には、下関居住を決めた龍馬に、自宅の一室「自然堂」を提供)・・・・・・そして長州藩が龍馬につけた用心棒の三好慎蔵(1831~1901・長府藩士・宝蔵院流槍術=三叉槍の名手・印藤聿の紹介で、龍馬と知り合う・薩長同盟締結直後、龍馬と寺田屋で遭難し、以来、龍馬とは篤い友情で結ばれた・龍馬は慎蔵の家に度々足を運んで、土蔵の中で密談を交わす・いろは丸事件の談判の際には、龍馬からお龍の後事を受託)・・・・・・ほかにも大勢いそうですがここに挙げた人たちは、長崎・下関でのその代表でしょう。竹島開拓について言及した書簡を受け取った人物が印藤聿(いんどうのぶる=豊永長吉・1831~1911・長府藩士・龍馬と長府藩府を結ぶパイプ役・維新後は、龍馬の夢を継ぐかのように財界で活躍し、関門地域の殖産興業に尽力・渋沢栄一らとともに門司の築港も着手)であります。その印藤聿について、「親仁ギャグ」も書いていました。2017年9月3日のもの(文章)です。
龍馬と高杉晋作の親交はかなり深淵なものであった・・・・・・という譚。龍馬が最初に下関を訪れたのが1862年(文久2)であり、2度目は1865年(慶応元)の閏5月1日に筑前黒崎から下関入り。その後の京都の近江屋で暗殺されるまで、龍馬は多くの月日を下関で過ごしたという。その間は1865年から1867年の3年間である。龍馬が多くの人に送った書簡が残されているが、その中には長州人も少なくない。少なくないどころか極めて多い。その筆頭が印藤聿(1831~1911)で、彼は主に龍馬と長府藩を繋ぐパイプ役のような役割を担っており、三吉慎蔵(1831~1901)の『日記妙録』によれば「我が藩士の龍馬に交わるは印藤聿を最初とす」とある。龍馬の護衛役を務めた三吉慎蔵はこの印藤の紹介による。龍馬が薩長同盟を締結させた直後の寺田屋事件の折、龍馬はピストルで応戦し、ボディガードの三吉慎蔵は得意の鑓で奮戦し、双方とも逃亡に成功した・・・・・・「寺田屋事件」はあまりにも有名である。そして革命に必要なのは資金であるが、下関にはそのパトロンも存在していた。白石正一郎(1812~1880・廻船問屋)と伊藤助太夫(いとうすけだゆう・1830~1872・長府藩おかかえ本陣で大年寄)は双方とも豪商。親交厚い(熱い)晋作は、本藩を萩から(支藩である)長府に替えようと考えていたため過激攘夷・俗論両派に命を狙われてたが、そのテロリスト、晋作に望みを託して資金援助を惜しまなかったのもふたりである。晋作(奇兵隊)は主に白石正一郎に、龍馬(薩長同盟)は伊藤助太夫の援助を受けた。

つづく。12月1日。

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