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今週の親仁ギャグ・2019年10月20日(日)~10月26日(土)

●ルーツを含めた民族の形成過程にとって重要なものの一つが「言葉」である・・・・・・「日本語」である。司馬さんの「司馬史観」の御世話になるしかない・・・・・と言うか・・・・・・司馬さんの文章が何と言っても最も理解し易いのですが。そこでここでも箇条書きとしましょう。
稲作が九州北部から全国(北海道や東北の一部を除く)へ拡大していくに出来上がったのが「日本語」である。「紀元前3世紀ごろだろう」と、司馬さんは書いている(「街道をゆく38・オホーツク街道」p14他・朝日文庫)。

北部九州から東北まで稲作が広まるのに要した時間は、約400年という。その間、先住民であった縄文人は「北へ北へ」と追いやられたのであろうか。はたまた侵入者(侵略者)の弥生人と同化していったに違いない。

その日本語の「構文は朝鮮語に似、発音はポリネシア語に似、『目(め)』「魚(な)』といった単音節の多い点では、古代越人たちのことばに似ている」(同p14)。

つづく。10月25日。

●紀元前4世紀(紀元前8世紀説もあり)から始まった弥生時代。その前の縄文時代の日本の人口は如何ほどか・・・・・・下縄文前期(5200年前)が10万5千人、縄文中期(4300年前)が26万人、縄文後期(3300年前)が16万人、縄文晩期(2900年前)が後期の半減の7万6千人。そして今から約1800年前の西暦200年の人口はなんと約60万人でしかなかった。ついでに大宝律令(701年)の頃が450万人、西暦800年頃が550万人と推定されている。弥生時代には、まさに疎(まば)らにしかヒトがいなかったのである。つづく。10月25日。

●日本人とは・・・・・・複雑すぎるので端折って箇条書きで攻めてみましょう。
20万年前にアフリカで誕生した今のヒトの共通祖先である新人が東アジアに到達したのが約4~5万年前であり、日本列島にもそのころ(4万年前)からヒトが住み始めたとされる。

その東アジア到達までの15万年間に環境の変化などによって、アフリカの新人は東アジア人と呼ばれるように進化しながら変化していった。この遺伝子(ゲノム)解析により分類されている東アジア人には、北東アジア人と東南アジア人、そして縄文人が含まれる。その縄文人が日本の先住民であり祖先である。

然るに縄文人は南方(沖縄)から北海道までの広範囲に拡散していったことになり、縄文人の遺伝子を色濃く遺しているのが沖縄を中心に住む人たちと北海道のアイヌ人である。九州や四国、本州に住む日本人には縄文人の遺伝子が少ない。

弥生人と縄文人は全く別な民族である。稲作が日本に伝来してからが弥生時代である。では稲作を伝来したのはどのような民族で何処から渡来したのであろうか。その中には、中国南部に居住していた南方系民族の越人があり、朝鮮半島からもあるが、どの民族が最初であったか不明である。

言うまでもなく遺伝子解析が重要だが、今の日本人は多民族の遺伝子が入り混じった、いわゆるミックスである。ゲノム以外にも大切な判断材料が「蒙古斑」や「蒙古襞」、「二重瞼」の「脛毛」などの身体的特徴や、それに「隼人舞」や「鵜飼」などの文化や生活様式である。

つづく。10月25日。

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