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今週の親仁ギャグ・2019年9月29日(日)~10月5日(土)

●「長岡人の矛盾」・・・・・・
河合継之助の終焉の地、福島県只見には1966年に「河合継之助記念館」(1972年から一般公開)が開館するも、長岡の記念館はそれよりも40年後の2006年と遅れること甚だしい。これは長岡の街を灰燼と化させた継之助への恨みの反映という。長岡には、今でも、継之助派と反継之助派が拮抗しているとか。しかし館長が反継之助派であったり、口では反継之助だが他人に継之助をなじられると、「おまえになにがわかる」と激怒する長岡人も少なくないという。
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継之助終焉の医者矢沢家は、「河合継之助・終焉の間」として記念館に移築保存されている。これは、後年のダム建設で水没するところを、矢沢家の子孫が近くの山に移転させたため、今にある。

 わたしも会津若松や長岡を訪問した際に只見の地まで足を延ばそうと調べたが、「六十里越」は車で抜けられるが、「八十里越」は山に不慣れな我々素人では、今でも困難なようだ。長岡の記念館の学芸員もそう言っていた。つづく。10月3日。

河合継之助の最期・・・・・・司馬遼太郎「峠」より
<「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。
松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
八月十六日午後八時、死去。
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自分の生死を客体化できた人物」(「司馬遼太郎の幕末維新Ⅱ・週刊朝日編集部・朝日文庫・pp123~141」)・・・・・・ということに尽きるだろうか。つづく。10月3日。

河合継之助の最期・・・・・・
①1868年5月2日:小地谷談判決裂で開戦。
②5月11日:占領されていた榎峠や朝日山を奪還するも、その1週間後に長岡城を奪われる。「峠」では、この時、「枡屋ぼ嬢や」が登場し、<「河合さま。勝つ勝つとおっしゃってこのありさまは何事でございます」>と暴言を吐かれる。
③7月25日:長岡城の奪還に成功。指揮官の西園寺公望と参謀の山形有朋らは命からがら逃走。しかし継之助はこの戦いで左足に被弾した。継之助負傷の痛手は大きく、4日後、長岡城は再び落城した。
④8月1日:いわゆる「八十里越」の大敗走が始まる(兵だけでなく女子供多数)。
⑤8月5日:会津領只見村に到着。会津若松城に籠城していた松本良順の診療を受けるが、既に手の施しようがなかった。
⑥8月12日:会津藩領塩沢村の医者矢沢氏の屋敷を宿所とした。ここが最期の場所となった。ここに幕僚の花輪求馬(もとめ)を枕頭によび、遺言を残した。
⑦8月16日:42歳の生涯を閉じる。死因は破傷風という。辞世の句は「八十里こしぬけ武士の越す峠」。
(参考:「司馬遼太郎の幕末維新Ⅱ・週刊朝日編集部・朝日文庫・pp123~141」・「峠(下)・司馬遼太郎・新潮文庫」)
つづく。10月2日。

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