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今週の親仁ギャグ・2018年2月25日(日)~3月3日(土)

名護屋城築城の経緯
1587年(天正15):豊臣秀吉は九州平定。
1590年(天正18):奥州伊達政宗を服属。小田原征伐で北条氏直を降す。徳川家康を関東に移封。これで天下統一を完成(成就)。
李氏朝鮮王朝(高麗)に、服従と明の征伐への協力を要請(対馬の宗義調らが複数の交渉)するが、当然として李氏はそれを拒絶。琉球や呂宋や高山国(台湾)にも同様の使者を出した。
呂宋(ルソン≒フィリピン):越山三郎原作「黄金の日々」の主人公は呂宋助左衛門。1978年のNHK大河ドラマ。
 
 肥前名護屋城の場所は、中世には松浦党の交易拠点の一つであり、もともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があった処。豊臣秀吉は大陸進攻を決断するとともに、ここを前線基地として築城を行った。名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。

宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、1591年(天正19年)8月、「唐入り」を1592年の春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めた・・・・・・と云う。
(以上はWikipedia参考・転写)。つづく。3月2日。

肥前名護屋城址の譚。1590年に小田原の後北条を倒した秀吉は、天正19年(1591年)8月、来春(1592年)の「唐入り」決行を全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めた・・・・・・のであります。では、本能寺の変から文禄の役に至るまでの、秀吉の戦歴と天下統一までの経緯を辿ってみましょうか。
本能寺の変:1582年6月21日(天正10年6月2日)。
中国大返し:1582年6月(「備前高松城の旅」で前掲)。
賤ヶ岳の戦:1583年6月(天正11年4月)。(賤ヶ岳は「今月の旅」での前掲あり)。柴田勝頼との戦いで、勝頼はお市の方とともに1583年6月14日、自害。お市の方と前夫・浅井長政との3娘のうちのひとりであるお江は二代将軍秀忠の継室であり、孫の徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、またその娘は明正天皇となった・・・・・・ことから今上天皇の先祖に当たる人物でもある
清州城会議:1582年7月16日。
小牧・長久手の戦:1584年(天正12年3~11月)。秀吉と家康との睨みあい・戦。
九州平定:1586~1587年。大友氏・龍造寺氏を下した島津義久との戦い。毛利元就の次男で隠居の身であった吉川元春は、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。岩国城を築城した吉川広家の兄もこの九州平定に参加したが、日向都於郡で病死している。
小田原征伐:1590年(天正18年2~7月)。(「今月の旅」での前掲あり)。
そして1951年(天正19年8月)、「唐入り」決行を決断し、全国の大名に布告・・・・・・そしていよいよの「名護屋城築城開始」という経緯となります。つづく。2月28日。

●今月の旅は、肥前名護屋城亀山社中、それにシーボルト記念館でした。空路で福岡空港→博多駅から西鉄バス→唐津駅(レンタカーを借りて)→呼子(水烏賊=アオリで昼食)→肥前名護屋城址→唐津駅(レンタカー返却)→JRで佐賀駅乗換→(長崎本線・かもめ)長崎駅→ランタンフェスティバル→太田和彦・居酒屋百名山で夕食→(長崎市泊)→(2日目)→亀山社中→眼鏡橋→(昼食)→シーボルト記念館→出島→グラバー園→太田和彦・居酒屋百名山→(3日目)→長崎港散策→長崎市散策→「特急かもめ」で博多駅へ→博多・天神で買物→福岡空港から帰路・・・・・・の2泊3日の強行の爆旅でした。今週も感激のスポットを紹介します。つづく。2月26日。

追補平清盛と厳島神社(宮島)。平家物語によると「安芸守であった清盛は、落雷で消失していた高野山金剛峰寺の『根本大塔』を数年かけて再建。修理を終えた時、どこからともなく現れた老僧から『厳島神社を修造すれば必ずや位階を極めるであろう』とお告げを受ける。老僧の去った後にはよい香りが残り、『老僧はもしや弘法大師では?』と感じた清盛は厳島神社を信仰。その後、武士として初めて太政大臣となる大出世を果たし、厳島神社の大改築に着手。鳥居を建て替え、寝殿造の優美な社殿、廻廊などを造った。」(ココミル・広島 宮島・p30)。今のように海上に立つ様式に修造されたのは1168年(仁安3)とされる。では簡単に清盛の年譜を・・・どうぞ。

1159:平治の乱(源義朝の内乱、源義朝は平清盛に討たれる。源頼朝は伊豆に流刑。この頃には平清盛を礎とする平氏一族が台頭)。
1164:平家納経(平清盛が厳島神社に33巻の経典を奉納・国宝)
1167:平清盛が武士で初の太政大臣となる。日宋貿易が盛んになる。平時忠「平家にあらずんば人にあらず」と発言。
1168:清盛、厳島神社を現在の形に修造。
1174:後白河法皇・平清盛、厳島参拝。
1175:清盛・重盛・時子・徳子、平家一門厳島参拝。
1180:清盛・徳子一門厳島参拝。

 清盛は1118年に誕生し、源平合戦が始まった(源頼朝の石橋山挙兵)1180年の翌年(1181)、鬼籍に入った。平家の政治(栄華)は二十数年に過ぎない。「驕れるものは久しからず」のフレーズの通り。

 厳島神社は、平家滅亡後も源氏に崇敬されたし、毛利元就が陶氏を破り中国制覇の足掛かりとした「厳島の戦」(1555年・弘浩元年)の舞台もここだ。むろん元就も厳島神社を崇敬したし、豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し大経堂(現千畳閣)を造営した。

 残念だが厳島神社は1207年(建永2)1223年(貞応2)の2度の火災で建物の全てを消失。現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたもの。

2月25日。

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