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今週の親仁ギャグ・2018年2月11日(日)~2月17日(土)

相撲協会が揺れているにしてはいかほど改革されるのか。元来、同業人の集合体は自己保身と既得権保持を目的とする組織だから、それを破壊して新しい秩序を築くには想像を絶するエネルギーが必要だ。だんまりの貴乃花親方が今度はテレビで2時間、熱弁を奮った。去年は相撲界にとって受難であった。その一つが富岡八幡宮の姉弟の正に骨肉の争いであり、殺人に自刃の刃傷沙汰が起こった。この富岡八幡宮は、五代将軍綱吉の時代、「勧進相撲」がはじめて許されれた神社である。深川に富岡八幡宮ができたのは三代将軍家光のとき。五代綱吉はなぜか深川の発展に尽力した。江戸の相撲が組織化して実力をもったのは江戸の中期と云う。木戸銭を取る興業相撲は京・大坂では豊臣時代からはじまり江戸に先行していた。江戸初期には、この上方での興業が終わると江戸に下って行った。深川の富岡八幡宮の境内での最初の勧進相撲が行われたのは、1684(貞享元)である。勧進とは、寺社への寄進のことであり、寺社の袞竜や修理など運営費を広く民衆から募ることである。富岡八幡宮は勧進相撲以外にも金集めへの執着が他よりも強かった節がる。「富くじ」である。竹でこさえたのが籤であるが、当時は富札の入った箱に錐で突いていたことから、「富突」とも言った。古典落語の「富久」にも富岡八幡宮がちらりと出て来ると云うから、富岡八幡宮の金への執着は今に始まったことではないようだ。このように商売の上手な寺を仏教界では昔から「肉山」(にくさん=金の入る寺)と呼ぶらしいので、富岡八幡宮の場合は「肉宮」なのだろうか。執拗な金への執着が生んだ悲劇であり、血肉を砕く結末となったのだ。富岡八幡宮の事件と相撲協会のスキャンダルはたまさか重なったのだろうが、金と地位への執着はほどほどにしなくてはいけませんよ、という警鐘ですぞ。(以上は、司馬遼太郎「街道をゆく・36」朝日文庫・pp55~65を参考にした)。2月12日。

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