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今週の親仁ギャグ・2017年7月30日(日)~8月5日(土)

●政府の残業時間の規制指針があります。残業は原則で月に45時間、年間で360時間です。労使協定で特別条項を設ければ、年で最長(最高)720時間、月最長で100時間未満、2~6カ月平均で80時間以内・・・・・・とあります。それに加え、上記の5年間の適用猶予の職業があります。医師建設業自動車運転手です。建設業や自動車運転手は、喫緊のオリンピックもありますが、道路や建物は経済インフラと密接な関係ですから・・・・・・のらりくらりのんびりと進められてはかないません。医師は来るを拒めず・・・・・・を超えて、診なければ「診療拒否」で訴えられることもあります。仮に生命にかかわる瀕死の患者の診療を拒否したとなれば、これは医の倫理にかかわる重大問題です。それに若い医師にとって、最初の数年(10年あるいはそれ以上かも)はさまざまな経験を積み、技術を習得する、自己研鑚の貴重な時期です。もし、最初の数年を一日8時間の週休二日、週40時間労働(勤務)としたら、果たしてまともなお医者さんが育つのでしょうか。つづく。8月3日。

●遺言が必ず実行されるとは限りません。勝海舟(1823~1899)には正妻の民子(1821~1905)以外に妾が5人(お久・糸・かね・とよ・米子)もいました。今では到底信じがたいことですが、妾とその子も勝家に同居していたそうで、民子は異腹の9人の子供を分け隔てなく可愛がっていたそうです。その民子は遺言で、「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿のそばがいい」と言い残しました。小鹿は長男です。しかし、実際は残った者たちの意見で、海舟の隣に葬られました。生前から口やかましく遺言内容を訴えていなくては完全反故にされうるということです。要注意ですな。8月3日。

●作家・吉村昭の最期は壮絶だ。舌癌と膵臓癌(全摘)で入退院を繰り返し、最期は自宅の畳の上と決め込んでいた。三鷹市の自宅で療養中の2006年7月30日朝、ビールを一口とコーヒーを飲んだ。その夜、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜いた。数時間後の7月31日午前2時38分に逝去。享年79歳。遺書には、延命治療は望まないとあった。司馬さんは腹部大動脈瘤破裂で急死した。司馬遼太郎記念館のキュレーター(案内人)が先日、私に語ったことです・・・・・・「日頃違和感はあったようですが、なにせ医者嫌いで、坐骨神経痛だと思っていたようです。」。池波正太郎も急性白血病で緊急入院し呆気なく世を去った。二太郎さんはふたりとも戒名でなく法名でした。そうそう、戒名のはなしですが、戒名を所望される方は、或る程度は生前に書きとめて置いた方が無難ですぞ。自分の好みの漢字の2つや3つは、少なくともですな。吉村昭の「赤い人」という、明治の囚人が北海道の原野開墾に無報酬の重労働を科せられた歴史小説があります。そこの脱監者に与えられた戒名は「釈逆流」とか「釈逆縁」(吉村昭「赤い人」p297・講談社文庫・2017年7月第5刷)というものです。息絶えたら、どんな戒名をつけられるか知れたもんじゃありません。逆に、歯の浮くような漢字の羅列も困りますが・・・・・・。つづく。8月2日。

●そうです・・・・・・「終活」を締めくくらねばなりません。遺言・・・・・・といっても身近な人への謝辞で十分でしょうが、心残りがひとつあります。それは現在、田舎の学校(幼稚園・小中一貫校)に10年計画で年に一度、本を寄付していますから、その約束は達成しなくてはなりません。遺言内容はその程度のものです。「葬式無用戒名不要」であります。収骨の部位も限定しなければなりません。5カ所で十分でしょう。散骨の場所については写真でもって示さなくてはなりません。人工呼吸は無用です。胃瘻も不要です。鎮痛剤・麻薬は大量が大歓迎です。臨終の枕元には最小限の家族で十分です。間違っても新聞の死亡欄掲載は無用です。死後の年回忌等の供養は一切無用です。ところで終末期延命治療を望むか望まないかを意思表示している人は、わずか3%だそうです。例えば脳幹出血で意識が完全に消失しているにも関わらず何カ月も税金のお世話になるなんて・・・・・・忍ぶに耐えられません。余生は健康年齢を延ばすべく色んな心身・身体的管理が重要でしょう。適度に酒を喰らって、美味いものを喰らって、美しきものを見聞して・・・・・・満喫の余生を過ごせばこの世に未練が残るようなみっともない最期は曝け出さない筈です。8月1日。

喧嘩両成敗じゃなくてはいけません。籠池夫妻が逮捕されましたが、用地大幅値下げ(8億円)の近畿財務局の成敗はどうなるのかが国民の関心事であります。既にその件は2017年4月6日、大阪地検特捜部が「国有地払い下げ問題」告発状を受理しています。あくまでも両成敗です。もっとも「喧嘩両成敗」は「中世および近世の日本の法原則の1つ。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則。」ですが。公務員の悪は庶民の悪と同等ではありません。罪は庶民より重いのであります。それも国会で虚偽答弁した理財局長が国税庁長官ですからね・・・・・・国民の納税意識に少なからぬ翳りを落とすことでしょう。これからが真相究明の始まりです。公僕同士のお手盛り、お情け裁判は許せません。中世は鎌倉・室町・戦国時代、近世は江戸時代から1853年のペリー来航(あるいは翌年の日米和親条約)まで。それからは近代です。古代は(大和朝廷時代)・奈良・平安時代です。きょうから葉月。8月1日。

●「」とは何ぞや。我が家にも「般若心経」は備えております。誰でも知っていそうな有名な文言(経文)の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色(しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき)」の意味は、「形ある物はさまざまな条件によって、今あなたの目の前にあり、いろいろな条件(縁)によって成り立っているものが「物」なのだ」という意味という。これも無信心者にはチンプンカンプン。砕けば、(しき)は五蘊(ごうん)の1つで、仏教用語で「形あるもの」の意。(くう)は、同じく仏教用語で「実体がないこと」の意。色不異空(しきふいくう)は、「形あるものは実体がないことと同じこと」という意。空不異色(くうふいしき)は、「実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するもの」の意味。色即是空(しきそくぜくう)は、「形あるものはそのままで実体なきものであり」という意味。空即是色(くうそくぜしき)は、「実体がないことがそのまま形あるものとなっている」の意味。さらに砕けば、例えば「コップ(鮨屋の太巻)はコップという実体があるわけではなく、何らかの素材の集まり(酢飯や干瓢や胡瓜などの具材)です。でも、素材が集まってあたかも一つの実体のように見えるコップ(太巻)というものが存在している。従って、コップ(太巻)というものは形があるから実体があるように思えるけれど、実は粘土のあつまりだったり、プラスチックの集まりだったりしてコップという実体は仮にしか存在していない。」と解釈するそうです。ざっくばらんにすれば、「空」とは後から取って付けた名前というのでしょうか。余程の高僧の説話なら理解できるかもしれませんが、眼前のコップや太巻を「実体のない」とは、小学生にも説得できません。稲田氏の発した「空」とは何ぞや・・・・・・「本当は実体のある事実、隠蔽工作はあったんであります。私が指示しました」ということでしょう。 空々しい、稲田氏の実像、実体はなにものぞ。7月30日。

●まあ驚きですね。防衛監察とかなんでもいいんですが、全大臣のはトップは総理でしょ。それも防衛省、自衛隊に至っては、その最高司令官は安倍ちゃんでしょ。そんなことは小学生だって知っているでしょうに。資質とか能力とか言う前に、現状は人間性にまで言及される段階です。「信なくば立たず」・・・・・・空しい響きですな。空々しい辞任釈明でありました。「仏教における空(くう、梵:シューニャター、巴:スンニャター)とは、固定的実体、もしくはアートマン(我)のないことや、実体性を欠いていることを意味する」(Wikipedia)。かの網タイツにハイヒールに伊達メガネの似非愛国主義者はどこまで考えて、ニンマリしながら「」を発したか・・・・・・ドヤ顔の、してやったりに見えたが・・・・・・国民の民心民進には向きません・・・一挙に政界再編まで進んだ方が国民目線の政治が開けるかもしれません。急がば回れですな。記憶がない、知りません、そうは理解してません・・・・・・類似の連発じゃ、これはもう政治家だから云々ではなく、人間性の問題です。つづく。7月30日。

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