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今週の親仁ギャグ・2016年1月24日(日)~1月30日(土)

●「痩せ我慢の美学」。咄嗟に思い浮かんだのが小林一茶の「やせがえる負けるな一茶これにあり」。「名歌名句鑑賞事典」(ベネッセ古語事典別冊)によれば、「一匹の雌蛙をめぐって、雄蛙が群れをなして争っている。負けて押しのけられてしまったやせ蛙よ、負けるな、一茶がここについているぞ。」という。「痩せ我慢」の意味は「苦しいのを我慢して、平気な顔をしてみせること。やせが。」(大辞林)。「痩せ蛙」と「痩せ我慢」を強引にこじつけてみると・・・甘利元大臣の顔が蛙に見えてきた。蛙の涙は世襲政治家である彼が総理になれるチャンスを逃したことに起因するのか・・・小便(しょんべん)はセンテンス スプリングへでも掛けてやりたかろう。1月30日。

●天皇皇后両陛下のフィリピン訪問には頭が下がる。フィリピンでの日本軍の戦死者は51万8千人。これに対してフィリピン人の死者は110万人。戦争を始めた日本人全体の死者は310万人(軍人200万人余・市民100万人余)。中国人の死者は1000万人とも。ところで最近読んだ本に、江戸時代、高山右近がフィリピンに追放された・・・とあったが、フィリピンとの交流はいったいいつ頃からだったのか・・・そういえば豊臣秀吉は明をはじめインドやフィリピンまで征服しようとしていた筈。「1591年豊臣秀吉はスペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督に、日本に入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。 1592年7月、ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスは、ドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信と贈物を届けると共に、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団 居住させる措置を採った(日本人町の始まり)。豊臣秀吉はキリスト教布教の伴わない南蛮貿易を望み、自らルソンとの交易を推進しようとしていた。両国が本格的に貿易を始めたのは1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれるようになってからである。。しかし1633年以降の鎖国令によって、日本人町は衰退しやがて消滅する。」(Wikipedia抜粋)。高山右近(1552~1615)はキリシタン大名であったため、禁教令によって追放され1615年、マニラで死去。それにしても甘利にも明らかな斡旋利得の金銭授受。大臣室は天下国家を論ずるところじゃなかったのか。1月29日。

●司馬さんの「医師観」が興味深いので紹介しましょう。「スポーツが体をまもることをおそらく東洋においては最初に知り、それを生涯実行したことであった。こういう点からみれば、片山宗哲などがいかに権威を誇ろうとも、医学史からみて家康にはるかに及ばなかった。さらには診断の上からでも、医師というのは豊富な知識と経験をもつだけではつとまらず、結局はうまれついたかんの良否が名医であるかどうかを決定するのだが、家康の政治感覚は、医学的合理主義と医学的平衡感覚とそしてすぐれたかんに拠っている以上、かれが医師の子にうまれて医師になったとしても、すぐれた診断術を謳われる男になったに相違なかった。」(司馬遼太郎「覇王の家・下」p333)。「かん」は、そう第六感のことで漢字は「勘」。勘のいい医者が名医というのが司馬さん的な「医師観」ということだ。もちろん知識と経験に裏打ちされたうえでの「勘」。司馬さんの小説も天生の「勘」の良さによって生まれたということだ。つづく。1月24日。

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