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今週の親仁ギャグ・2015年11月1日(日)~11月7日(土)

文化勲章に不満プンプン。この10年間、画家の受賞がない。最後は2006年の大山忠作(日本画=以下「日」)。少々の労苦を要するが第1回の文化勲章から今日までの受賞画家を列挙してみよう。1937年に竹内栖鳳(日)・横山大観(日)・岡田三郎助(洋画=以下「洋」)・藤島武二(日)。1940年に河合玉堂(日)。1943年に和田英作(洋)。1948年に安田靭彦(日)・上村松園(日)。1950年に小林古径(日)。1952年に梅原龍三郎(洋)・安井曽太郎(洋)。1954年に鏑木清方(日)。1955年に前田青邨(日)。1956年に坂本繁二郎(洋)。1957年に西山翠嶂(日)。1958年に松林桂月(日)。1959年に川端龍子(日)。1961年に堂本印象(日)・福田平八郎(日)。1962年に奥村土牛(日)・中村岳陵(日)。1965年に山口蓬春(日)・小絲源太郎(洋)。1966年に徳岡神泉(日)。1967年に林武(洋)。1968年に堅山南風(日)。1969年に東山魁夷(日)。1972年に岡鹿之助(洋)。1974年に杉山寧(日)・橋本明治(日)。1975年に小山敬三(洋)・田崎広助(洋)・中川一政(洋)。1976年に小野竹喬(日)。1977年に山本丘人(日)。1980年に小倉遊亀(日)。1981年に山口華楊(日)。1982年に高山辰雄(日)。1983年に小磯良平(洋)・牛島憲之(洋)。1984年に上村松篁(日)・奥田元宋(日)。1986年に荻須高徳(洋)。1987年に池田遥邨(日)。1989年に片岡球子(日)・吉井淳二(洋)。1991年に福沢一郎(洋)。1992年に佐藤太清(日)。1993年に森田茂(洋)。1994年に岩橋英遠(日)。1996年に伊藤清永(洋)。1998年に平山郁夫(日)。1999年に秋野不矩(日)。2001年に守屋多々志(日)。2003年に加山又造(日)。2004年に福王寺法林(日)。そして「鯉」の大山忠作。今やすべて故人です。絵画愛好家としては受勲者が10年も現れないのは残念至極ですが。その理由は画家が拙劣稚拙なのか・・・それとも撰者側の眼が霞んでいて鑑識不明なのかのいずれかであろう。洋画の藤田嗣治(レオナルド・フジタ)や荻須クラスのように西欧でも見劣りしない画家は少なかろうが、端坐してよくよく鑑賞するに(ゴッホやルノアール、モネなどの面々には及ばずも)優劣つけ難い画家もいなくはないですよ。梅原然り、(文化勲章は辞退したが)熊谷守一なんてのは捨てたもんじゃありません。殊、日本画に至っては、大観、栖鳳、玉堂、松園、東山、平山、杉山、深水、加山・・・というような巨匠はどうみても中国の水墨画を凌駕しているでしょう(雪舟やら等伯に怒られますやら)。盆栽好きの西欧人が悩殺されぬ筈がありません。親仁はかねがね(予予)日本人の絵画の素晴らしさを広く大陸、西洋まで宣伝啓蒙すべきだと考えているひとりです。そうであるからして文化勲章を少なくも3年にひとり与えてもらいたいものです。先ほど亡くなった森本草介氏は推挙に当らないですかね。画家が新たな境地を見出すことは至難の道であるでしょうが・・・千住さん、絹谷さん、発奮をお願いしますよ。11月5日。

●過去の発言からも安倍首相の「慰安婦問題の歴史的裏付けは発見されず、そういった史実はなかった」とする考えは確信犯であり、疑う余地はなかろう。従って、いくら過去の発言を否定し、繕ったとしても韓国側が信頼する訳がなかろう。懺悔し美言を並べても時すでに遅いのです。ここに興味ある文章を紹介しましょう。「さすがにこのごろ韓国にキーセン買いに出かける日本人はなかろうが、金大中事件が起って日韓の間がおかしくなっても、まだキーセン買いの大群が日本から押すな押すなで出かけていたようだ。やらせる観光会社も観光会社だが、やる日本人も相当な度胸の持主である。私には、おかしいことに韓国に一人の愛読者があって、その人の手紙に、まだ金大中事件などが起らない前に、日本人のキーセン買いにははらわたが煮えくり返る、とあった。こういうことは経済云々の問題より国民感情を刺激するものである。私は彼の悲憤をもっともと思っていた。最近の日韓のもめごとは、それ自体にはこっちにも言い分が重々あるが、しかし韓国人にして見れば右のような行為に対する陰湿な怨恨がたまりにたまっていたのが爆発したのである。さすがにキーセン買いを奨励する新聞はなかったようだが、それでもわれ関せずと押しかける日本人たちがあった。(以下略)」。この文章の出典は山田風太郎新聞を読まぬ日本人の一大集団」。初出は1974年9月30日付の「日本読書新聞」と云うから41年前のものだ。1965年(昭和45)の日韓請求権協定よりも後だが、1991年の韓国の元慰安婦らが日本政府に補償を求めてた提訴よりも前のものだ。要は、儒教で言うところの「仁」であり「恕」であり「義」だ。相手を思いやり、人のなすべき道理を守るということだ。果たして日本人はそれを心奥に据えて言動しているか・・・個々が自問自答すべきでないか。つづく。11月4日。

●日韓の慰安婦問題の概略。1965年(昭和45)に日韓請求権協定で一応の解決(?) 1977年、吉田清治氏が「朝鮮人慰安婦と日本人」を著し、軍令で強制的に韓国人(済州島)女性を慰安婦にしたと「告白」 したが、これは韓国人記者の現地取材でそのような事実の存在しなかったことが判明。従って吉田告白は虚言(捏造)であった。1991年(平成3年)、当時朝日新聞記者だった植村隆氏が2度に渡り慰安婦問題の記事を書いたが、これも捏造であることが判明。1991年、韓国の元慰安婦らが日本政府に補償を求めて提訴。1993年8月、「(慰安所は)当時の軍当局の要請により設営された」「(慰安所の設置や管理、慰安婦の移送について)旧日本軍が直接あるいは間接に関与」したことを認める、いわゆる「河野談話」(宮沢内閣・河野洋平官房長官)を発表。その後の紆余曲折を経て、安倍晋三首相は過去に、「河野談話」を発表した河野洋平を会に呼んで、談話の撤回を要求従軍慰安婦は作られた話」。旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」。この決議案は客観的な事実に基づいていません」。これは、別に決議があったからといって我々は謝罪するということはないということは、まず申し上げておかなければいけないと思います」。官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」。「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」・・・・・・などと発言している。その結果、その他の歴史認識の相違から3年間半の首脳会談空白期間となった。韓国内では国家間の取り決めも国民のさまざまな世論に圧されて御座なりとなる・・・そういう国民性(国柄)らしいつづく。11月3日。

●「泥沼に杭打ち入れた旭化成」。いったい「杭打ち偽装データ」のこの手法はいつごろからやられていたのだろうか。先日の高千穂通での「認知症ドライバーの歩道暴走事件」も問題は簡単単純でない。病気を一番に知っていた家族は「何処へ出かけたか知らない」し、認知症で通院していたことに対して病院と警察はじめ行政との連携がない。杭打ちの偽装問題は、もしかしたらバブルのあたりからその存在が知られていたのでは・・・勘繰りたくなる。問題が起こらなければ多少の手抜きは許容範囲なんて・・・行政も知って知らぬ振りをしていたのではないか。バブル時代、行政の部長クラスは呑み喰いに自由な財布を持っていたし(もちろん税金です)、建築関係の業界との付き合いは派手そのものでしたから・・・想像に難くありませんね。行政は大事件や大事故にならぬ限りは知って知らん顔が常套ですから、今回の「杭打ち偽装データ問題」も「認知症暴走事件」も起こり得ることを十分に認識していたのです。しつこく断っておきますが、建築確認許可を出すのも運転免許証交付もどちらも行政の管轄ですから、他人事のような会見じゃ責任逃れに責任転嫁ですね。つづく。11月3日。

●親仁はいま、毎日新聞の「万柳」に凝ってますが、「中韓は急がず次期(つぎ)に任せたら」(自己評価でも「ボツ」間違い無なし)なんてどうでしょう。きのうの日中韓首脳会談。議長国、韓国の朴槿恵大統領と中国の李克強首相、そして安倍晋三首相の3首脳会談。安倍首相との握手で李克強首相の口は真一文字、愛想笑いも何もない。首相就任後初の訪韓にもかかわらず韓国側の“もてなし”は冷淡で食事会もなし。3カ国首脳会談といっても中国は習近平国家主席に非ず。李克強首相の無愛想も何となく沖縄県の翁長知事の面相を想像させる。もののもめ事の発端と云うか最初の原因は何なのか、最初どっちに非があるのか、どちらが横暴で横柄で無茶苦茶なのか・・・・・・篤と考えることだな。冒頭の「万柳」は会談前の一昨日に考えました。会談の失敗が分っていたからです。加害者と被害者、押し付ける側とその逆・・・冷静に篤と思い返す返す反芻することが必要です。「安保改悪法案」以後の安倍首相は何を焦っているのでしょうか。上っ面で謝罪されても本心が知れていればこの問題の解決は困難だろう。然るに安倍首相のあとの総理に任せることだな。つづく。11月2日。

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