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今週の親仁ギャグ・2014年4月6日(日)~4月12日(土)

●「いまひとつ、挿話がある。この暗殺の直前、二条城にいる徳川慶喜が、たれの口からきいたか、竜馬の名を知った。その竜馬が大政奉還の立案者であり、かつ反幕志士のなかで唯一非戦論者であることも知った。むしろ慶喜は竜馬において同志を見出した思いがあったのであろう。『土州の坂本竜馬には手をつけぬよう、見廻組、新撰組の管掌者によく注意をしておくように』と永井尚志に言いふくめた。永井はむろん竜馬を知っている。当然とおもい、翌朝、慶喜の言葉を管掌者に伝えるべく出仕したところ、机の上に紙片がおかれている。紙片には、昨夜、竜馬を暗殺した旨、躍るような書体で大書されていた。」(司馬遼太郎著「竜馬がゆく八」・あとがき五p420)。運命とはこういうものなのだろう。つづく。4月10日。

大政奉還後、会津藩(藩主松平容保・京都守護職)はじめ新撰組(近藤勇、土方歳三)、京都見廻り組(佐々木唯三郎、今井信郎)の旧幕府方(佐幕派)は、その調整役の主人公であった竜馬の命を必至で狙った。運命の夜の1867年11月15日、中岡慎太郎は河原町の土佐藩邸に福岡藤次を訪ねて陸援隊のある白川村を出たが、福岡が不在であったため藩邸に近く竜馬が潜伏している近江屋へ足を曲げ立ち寄った。これが中岡の不運でもあった。「たまたま竜馬は数日前から風邪をひき、熱が高く、土蔵で寝ていた。土蔵で中岡と応対すれば事はなかったであろう。『土蔵は熱くさいきに、母屋で話そう』といって中岡を母屋の二階で待たせた。」(司馬遼太郎著「竜馬がゆく八」p385)(寒いので大好物の軍鶏鍋を食うために峰吉に軍鶏を買いにやっているあいだ)「数人の武士が、近江屋の軒下に立った。午後九時すぎであった。刺客である。この刺客たちの名は維新後のとりしらべでほぼ判明するのだが、幕府の見廻組組頭佐々木唯三郎指揮の六名であった。佐々木はひとりで土間に入り、二階へ大声で来意をつげた。二階表の間に藤吉がいる。藤吉は削っていた楊枝をおき、階段を踏んで土間におりると暗い土間に武士が一人立っていた。『拙者は十津川郷士。坂本先生ご在宅ならばお目にかかりたい』と、名刺を藤吉にわたした。十津川郷士の何人かは竜馬と懇意だし、しかも相手はひとりである。藤吉はうたがわずにその名刺をもって階段をのぼろうとした。(いる)と刺客は見たであろう。事実、そう見た。佐々木はそのまま。入れかわって今井信郎、渡辺一郎、高橋安次郎が藤吉のあとを追い、のぼりつめたところでいきなりその背を真二つに斬りさげた。・・・『ほたえなっ』とどなった。土佐言葉で、騒ぐな、という意味である。この声で刺客たちは討つべき相手の所在を知った。電光のようにかれらは走った。奥の間にとびこむなり、一人は竜馬の前頭部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。この初太刀が、竜馬の致命傷になった。」(司馬遼太郎著「竜馬がゆく八」pp387-388)。竜馬は「平素剣を軽蔑し、不用心でいるため」佩刀陸奥守吉行は床の間にあった。奇襲された二人の絶命までの「竜馬がゆく」の描写は読むに忍びない。竜馬の最後の言葉は「慎の字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」。そこにある記述は受傷後二日間生き延びた中岡慎太郎の証言によるところが大きい。「竜馬がゆく」は八巻の長編なので、最後の数ページでも書店での立ち読みをすすめますつづく。4月9日。

竜馬は三岡八郎の新政府閣僚入りの承諾を得るため越前藩へ向い、まず藩主の松平春嶽に会って事情を説明した。その時、三岡八郎は閉門の身であった。竜馬は”三八”に金も兵もない新政府の財政策を問うたのである。「夜ふけていよいよ三岡が帰宅しようとしたとき、竜馬はひどく別れ難そうな様子をし、『なんだ』三岡が手にとると、竜馬の写真であった。『おれの写真さ。このさきどうなるかわからん。万一のときの形見だと思ってくれ』と、竜馬はいった。『そうかね』三岡はつぶやき、竜馬の顔をみた。竜馬はいつになくふかぶかと沁みとおるような微笑をその目もとに刻んでいた。三岡はふとめまいを覚え、なにやら別世界の人間と対座しているような、えたいの知れぬ感情に襲われた。・・・妙な話がある。竜馬が福井を発ってから十日あまり経ったころ、三岡は藩の家老岡部豊後にまねかれた。・・・帰路、夜がふけてしまっている。三岡は、若党に足もとを照らされながら道をいそぎ、やがて足羽川にかかる橋を渡った。橋を渡りおわって土手にさしかかったとき、いままで物音もなかった天地にどよめきがきこえた。『あれはなんだ』平素、物におびえることのすくない三岡が、叫ぶようにして若党に言ったほどであった。・・・しかし三岡の体にえたいの知れぬ戦慄だけが残った。そのつぎの瞬間、三岡は叫んだ。『提灯をつけろ』『どうなされたのでございます』『懐中の物を落とした』すべてが、なかった。紙入れも、あれほど大切にしていた竜馬の写真もない。そのあと一時間ばかり、三岡は土手のあちこちをさがしまわったが、ついになかった。三岡は帰宅した。それから二日後、竜馬が中慎太郎とともに京の宿で死んだ旨の報が、三岡のもとに入った。あの夜、ほぼ同時刻に、竜馬の霊は天に駆け昇ったのである。」(司馬遼太郎著「竜馬がゆく八」pp376-380)今回発見された手紙の内容の詳細が8日午後の時点では分からないので何とも言い難いが、竜馬が”三八”と会談した後、後藤象二郎が何処にいたのであろうか。いづれにしても大政奉還直後の竜馬の行動を示し、かつ証明できるもので第一級の発見であろう。もっとも”三八”こと三岡八郎(明治後由利公正)は明治42年に81歳でこの世を去っているから(竜馬に関する証言者は海援隊No.2の陸奥陽之助=歴代外務大臣三傑のひとりである陸奥宗光、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利道、伊藤博文、松平春嶽・・・岩崎弥太郎、妻お龍、姉乙女、そして竜馬が最も尊敬した海舟勝麟太郎などそれこそごまんといいただろうから)・・・多分に正しい証言が多く残っているのだろうが・・・維新三傑のひとりである西郷隆盛にしても竜馬の人事案を見た時、「三岡八郎」という人物を知らなかった。これぞ、竜馬の凄みの一片だ。まだまだ、つづく。4月8日。

●大政奉還を明言した翌日の1967年10月14日、「竜馬はやがて名簿を書きあげ、ばたばたと二階からおりた。階下で、陸奥陽之助が突っ立っていた。『できましたか』と陸奥がいうと、竜馬はうれしそうにうなずき、できた、といった。こうやって書きならべつつあらためて思案してみると、古今の英雄豪傑をしのぐような人物が雲霞のようにいる、当代の盛事というべきだ、と言い添えた。・・・竜馬の新政府役人表とは、こうである。関白 三条実美(副関白として徳川慶喜)議奏 島津久光(薩)、毛利敬親(長)、松平春嶽(越前)、鍋島閑叟(肥前)、蜂須賀茂韶(阿波)、伊達宗城(伊予宇和島)、岩倉具視(公卿)、正親町三条実愛(公卿)、東久世通禧(公卿) 参議 西郷吉之助(薩)、小松帯刀(薩)、大久保一蔵(薩)、木戸準一郎(桂小五郎・長)、広沢兵助(長)、後藤象二郎(土)、横井平四郎(小楠・肥後)、長岡良之助(越前)、三岡八郎(越前) 西郷は一覧し、それを小松、大久保にまわし、ぜんぶが一読したあと、ふたたびそれをてにとり、熟視した。(竜馬の名がない)・・・・・」(司馬遼太郎「竜馬がゆく八」pp338-339)西郷にしても大久保にしても桂にしても岩倉にしても、この時、これからの日本の統治機構をどのようにするのかという具体案を持ち合わせていなかった・・・しかし、竜馬だけは例外であったからこの「内閣人事案」を即座に書き起こすことができたのである竜馬の全国を股にかけた交友力とその才能を見抜く力に感動だ。まだまだ、つづく。4月8日。

●「これらの事態のなかで、とほうもない偶然が発生していた。倒幕の密勅のことである。岩倉・西郷・大久保は、竜馬・後藤の大政奉還コースとは別にひそかに密勅降下の工作をつづけていたが、それがなんと、慶喜が大政奉還の決意を表明したその夜に密勅が降下した。偶然、同日であった。慶喜の表明の方が数時間早かった。このため倒幕密勅は岩倉の手に入ったものの無効になった。将軍が政権を奉還し幕府が消滅してしまった以上、それを討つ名目がなくなったのである。岩倉らは肩すかしをくらい、密勅は闇から闇に葬り去られた。武力倒幕派が、いわば竜馬にしてやられたというべきであろう。」(司馬遼太郎著「竜馬がゆく八」p332)。岩倉具視は幼帝(孝明天皇の第2皇子で生母が中山慶子。すなわち1852生まれの明治天皇で在位は1867~1912)の外祖父である前大納言中山忠能に秘密工作させ、玉璽(ぎょじ=天子の印)を押させ詔勅としたのである。まだまだ、つづく。4月8日。

●竜馬ファンとしてはこの「大発見」に、やはり竜馬は維新の「大立役者」で「無血革命家」であったことが改めて証明されよう。「『世に絶望ということはない』 竜馬は、にがい顔でいった。死んだ高杉晋作もそういう意味のことを言い、いっさい絶望せぬ、それが信条であると平素言っていたのを、竜馬はふと思い出した。一方、後藤は夜九時になってやっと小松、福岡、辻らと二条城を出ている。かれらはすぐその足で二条関白を訪ねるわけだが、後藤のみは竜馬に結果を急報するために途中でわかれ、自分の下宿に帰り、手紙をかいて下僕を走らせた。・・・『大公樹、政権を朝廷に帰するの号令を示せり』と、ふとぶとと書いた。下僕は走り、町々を駆けぬけてやがて河原町の近江屋の戸を乱打した。中島作太郎が出てそれを受けとり、階段を二つ飛びでかけあがって竜馬に渡した。竜馬は、ひらいた。黙然と首を垂れて手紙を見入っている。顔が、あがらない。と、一同は竜馬の膝の上の後藤の文章をのぞきこむと、なんと大政奉還の実現がありありと報じられているではないか。みな、声をうしなった。首領の竜馬が、依然として言葉を発せず、顔を伏せたままで凝然とすわっているからである。やがて、その竜馬が顔を伏せて泣いていることを一同は知った。・・・竜馬がこのとき吐いた言葉とその光景は、そのまわりにいた中島作太郎、陸奥陽之助らの生涯忘れえぬ記憶になった。・・・大公樹(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。と声をふるわせていった。竜馬は自分の体内に動く感動のために、ついには姿勢をささえていられぬ様子であった。・・・」(司馬遼太郎著「竜馬がゆく八」pp321-323)。これが慶応3年(1867年)10月13日の夜のことである。その日、後藤象二郎が二条城に持参した「建白の儀」からはじまる「万一行なわれざれば、もとより必死の御覚悟ゆえ、御下城なさるまじ」・・・「もし御下城これなきときは」・・・「海援隊一手をもって大樹(将軍)参内の道路に待ち受け」・・・この文章、三百八十五字、行間に殺気が満ち、鬼気あふれ、藤吉の使いでこの手紙をうけとった後藤は一読しておもわず慄えた(同pp313-314)。この三百八十五文字は竜馬が書いた、いわゆる「大政奉還」勧告書である。竜馬は土佐藩(元)脱藩郷士の下級武士であるため、もちろん15代将軍徳川慶喜なんぞに拝謁できる身分では無かった。今回発見された手紙は土佐藩上士で竜馬筆の「建白」をもって将軍に拝謁し大政奉還を迫った後藤象二郎(山内容堂土佐藩の首相格)宛つづく。4月8日。

●「竜馬暗殺直前の手紙発見=新政府構想に言及、一般家庭で保管。時事通信4月7日(月)21時22分配信」『幕末の志士、坂本竜馬が暗殺される直前に書いた手紙の下書きとみられる文書が新たに見つかったと7日、NHKと高知県立坂本龍馬記念館が発表した。東京の一般家庭で保管されていたもので、同記念館や京都国立博物館などが鑑定した結果、直筆であることはほぼ確実と判明したという。「越行の記」と題され、竜馬が京都で暗殺される近江屋事件の前の10日以内に書かれたとみられるという。本文が739文字あり、土佐藩の後藤象二郎に宛てた手紙の下書きとみられ、大政奉還後の新政府の財政計画や人材について書かれていた。NHKの番組収録中の街頭インタビューがきっかけで、東京都国立市の家庭のちゃぶ台の下に保管されていたことが分かった。古美術商から買った価格は1000円だったという。』。竜馬が近江屋で暗殺された日は1867年11月15日つづく。4月7日。 

モノが値上がりしている。タクシー代は1割以上の会社も。近くの饂飩屋さんも値上がり。円高による燃料や小麦などの高騰によるのだろうが、消費税率8%と同時に実行するのは便乗の気配あり。殊にタクシーは「車両減数法案」が可決しているから宮崎市を含む全国の都市部ではタクシー台数が減っている。そもそもこの法案成立の背景には、「小泉改革の一環であった規制緩和実施後、新規参入が容易になりタクシー台数が増加→1台当たりの売上が減少→乗務員の賃金も減少→収入を増やすため無理な運転→事故件数が増加」への対処という。親仁的には台数が減れば1台当りの収入が増える訳だから、ただでさえ割高感の大きいタクシーで1割も2割もの値上げは度を逸しているであろう。ニシタチ周辺の客待ちが減るのは大いに結構だが、ニシタチが遠のくのも必至! 万事、値段相応以上の商品やサービスでないと消えていくだけ。その壁を乗切るのが経営者の力量である。4月7日。

4月4日から始まったラジオ。1年間で52回の放送があり、半分が親仁の担当だから、26回分のネタ探しをしなくてはならない。とりあえず10回たらずの分は考えているのだが・・・前準備の習い性を持ち合わせない無精者の小生には珍しく今から残りのネタを発掘しようと意気込む。そう、きのうの夜8時過ぎにタクシーで街の「蔦や」へ出向き、向田邦子の「眠る盃」とその妹の向田和子の「向田邦子の恋文」、それに佐藤愛子の「犬たちへの詫び状」の3冊。どういう訳か、向田邦子と佐藤愛子が猫犬好きであることをエッセイなどで前々から知っていた。向田邦子の部屋の壁には藤田嗣治の「猫」が掛っている写真を見たこともある。佐藤愛子は1923年(大正12年・関東大震災の年)生まれで今も現役作家。大正生まれの90歳を超えた女流作家がどんな思考回路を持ち合わせているのかが彼女の本を手にする理由である。今日はそのうちの1冊「向田邦子の恋文」を読破し、「眠る盃」の犬猫に関する箇所も一部目を流した。しばらくはラジオのネタ探し読書で、歴史物は残念ながら少し控えなくてはなるまいか。4月6日。

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