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今週の親仁ギャグ・2013年3月3日(日)~3月9日(土)

ブタは肥やして食え」。日本の有史以来、「三日天下」を果たした人物は本能寺の変で織田信長を焼打した明智光秀以外にもうひとり。2008年9月25日に麻生内閣の国交相に就任し、例の「日教組」批判で3日後の28日に辞任に追い込まれた、わが郷土の狂わしき「ホシ」なる人物だ。冒頭は昨日(3月8日)の衆院予算委員会で質問に立った中山成彬氏の発言。「ブタ」は紛れもなく「日本国民」。彼に一票を投じた「宮崎県民」。彼の言い分は、企業交際費を減税対象とし、金の回りを活発にして末端(飲食店などのことを指したのであろう)まで潤わせ、最後は消費税などの税収が増せば一挙両得ではないか、との趣旨である。おい、国民は「ブタ」かよ。場内は冷笑とは言い難い、どちらかと言えば破顔一笑に満ちたが・・・この種のジョークは4年半前を彷彿とさせる。字は違うが、薩摩11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら、1809~1858、篤姫は養子)は自藩の殖産興業に努め、西郷吉之助(隆盛)などの人材を見いだして育成し、国の行く末を案じ想い幕府を動かした。ちとは見習って郷土のためにも、国のためにも余生を投じて貰いたい。明智光秀は天正10年6月2日に「敵は本能寺にあり」で織田信長を討った。そしてその6月13日(1582年7月2日)、豊臣秀吉に追われ、「山崎の戦い」で落ち延びる途中、竹藪で落ち武者狩りの百姓(中村長兵衛)に竹槍で刺殺されたとされる。「三日天下」は11日間。3月9日。

「日本」という国号の意味。一般的には「日出づるところ」。先に紹介の網野善彦氏によれば、「承平年間(931~938)に『日本書紀』の講義が行われた時の概略を記した『承平私記』『日本書紀私記』という記録に、面白い話が書かれています。この時の講師が日本という国名について『日出づるところ』という説明をしました。そうしたところ、出席していたある参議から『今この国に在りて之を見れば、日は域内より出でず』という質問が出ています。つまり、日本国にあってみる限り、お日様は自分の領域の中から出ないじゃないかとうわけです。この重要な問いに対して、講師は何も答えていません。とすると、日の出るところは即ち、東の方角を指しているに過ぎないと理解するほかありません。つまり、日本とは地名でなく、東の方角を意味する国名ということになります。」。当時、倭人(日本人)は隋(581~619)と唐(618~907)に遣い(遣隋使・遣唐使)を送り、隋や唐にしてみれば日本は朝貢国のひとつであった。国号を日本としたのは、中国大陸から見た東側の「日出づる」国であり、大陸(唐)を強く意識して決められた・・・・・・可能性を示唆している、というのが網野氏らの説らしい。氏によれば、聖徳太子(574~622)の隋の皇帝あての国書になぜ先方が怒ったかについて、かつては「日の没する処」と書かれたことだとされたが、実はそうではなくて「日出づる処の天子」(=聖徳太子)の「天子」の方だというのである。世界に「天子」がふたり存在してはならなっかったから。氏は多少、左より(少なくとも国粋主義者ではない)のような気配がしないでもないが・・・まあ、参考には価しそうだ。※聖徳太子の時代は未だ「日本」ではなく「倭」であり、聖徳太子自身も「倭人」と称した。3月7日。

最近の永田町の雲行は・・・・・・。ギャングスタイルでG20を乗切り、次期総理も狙うとされる奮闘ぶりの麻生副総理。影が薄くなりはせぬかと警戒する石破幹事長も派閥結成を目論む。石原慎太郎氏入院で、日本維新の会の「西と東」・「大阪維新とたちあがれ」との亀裂が秒読み。それにしても民主の空中分解が予想より遅い。国民新党の自見庄三郎氏らの自民党復帰もそろって拒絶さる。剛腕小沢氏の政治生命は実質、蘇生不能。嫁さんと不仲は剛腕だけじゃない、みんなの渡辺代表も内から瓦解しかねない。安部内閣の70%を超える支持率で、打つ手なしの全野党。どう見ても、7月の参院選の前にひとつもふたつも大波乱の民主党離党劇が勃発し、惨敗は必至であるからして選後に民主崩壊が成立するであろう。そこで橋下・慎太郎の「絆」崩壊の現実化がカギ。それ次第で橋下・前原氏などの新構想が芽吹くか。さて、次なる永田町の風雲児は誰や生(な)る。不安定政権はもう真平御免だが、少しは週刊誌を賑わしてくれなくては・・・「親仁ギャグ」のタネがなくなるではないか。3月6日。

それでも「親仁ギャク」のネタは常にどこからか仕入れなければすぐに尽き果てる。昨夜も呑み会の帰宅後、近場の書店へ家人と再外出。文庫本棚を数回、遊回か回遊かして1冊か2冊買い求める。勿論、所望でなければ週刊誌だけ。昨夜の収穫は網野善彦著「歴史を考えるヒント」(新潮文庫2012年)倭人が住む大和(=倭=やまと)がいつから「日本」という国名に代わり決まったのか・・・・・・。著者によれば、「現在の大方の学者の認めるところでは、浄御原令(きよみはらりょう)という法令が施行された六八九年とされています。・・・・・・対外的には、大宝律令が制定された七〇一年の翌年、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)が当時の周の皇帝・則天武后(中国大陸の国家の歴史上、唯一の女帝で、国号を唐から周にかえています)に対して、「日本」の使いであると述べたのが最初といわれており、これは、ほとんどすべての学者が認めています。・・・・・・」(pp15~16)。自身の国号はいつ始ったのかを中国人に問うと1949年(10月1日)と答え、アメリカ人に同じ質問をすると1776年(独立宣言)と答えるが・・・・・・日本人は概ねというか、ほぼ全員が不正解という。親仁も知らなかった、不勉強だ。では、「日本」の「語源?」と問われたら・・・さあ、どう答えるかつづく。3月5日。

Oh my gosh! 今日の明け方のこと、昨夜はスタッフの産休突入呑み会をして早く就寝、それで5時前には目が覚める。先週分の「親仁ギャグ」掲載写真の文を一気に書こうと決起。写真5枚目の最後まで書き終え、「公開する」をクリックしたら、なんと「文字化け」で全滅。どうにかならぬかと管理会社に問い合わせたが、生き残りは2月24日の文のみ。憂鬱な1日であった。よく、「いつ書いているのか」訊かれるが、基本はアルコールが入っている時は無理、あとは起きては書き、喰っては書き、昼寝・仮眠後に書き、診療の合間に書き、いきなり想い立っては書き・・・ということだ。嬉しいことに「親仁ギャグ」には毎日500人前後のアクセスがあり、1人平均2~3ページを開いてくれている。毎年、少しずつ増えているのがやる気を奮起させる。先週の分(文)もかなりの時間を費やしたのでやはり悲しいかな、憤慨しきりだ・・・Oh my gosh! 先週のネタは又、折を見て書きますぜ。3月4日。

小村寿太郎(1855~1911)はロシア語も操れたという。当時の国際標準(公用語)語であったフランス語も流暢に話せ、英語はハーバード大学ロー・スクール卒業であるから論外。ポーツマス講和会議では、寿太郎(日本側)から発せられた意見(日本語)はフランス語へ、そしてロシア語へ通訳され、反対にロシア語はフランス語を介して日本側へ翻訳・通訳された。4ヶ国語を自由に操れた寿太郎は翻訳・通訳される間に条約締結に有利な条件・内容を考えた。これが、吉田茂(1878~1967)をして「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と言わしめた英傑。寿太郎が日本の歴史上、最も有能な外交官たる所以である余談だが、明治生まれの文豪、志賀直哉(1883~1971)は冗談ではなく本気で日本の国語をフランス語にしては、と公言していた。3月4日。

1945年9月5日午後3時47分はポーツマス条約の署名が終わった瞬間である。ロマン・ローゼン(1847~1921)がセルゲイ・ウィッテ(1849~1915)と共に「敬愛する友人の手を握らせていただきたい」と小村と高平小五郎(1854~1926)に握手を求めた。小村は「両閣下が平和を心から望まれたことによって、ここに講和条約が成り、人道、文明に寄与されたことはまことに賞賛すべきことであります。今後、日ロ両国の友好に尽力することは私の義務であり、喜びでもあります。」と英語で答え・・・・・・ウイッテがフランス語で、「ポーツマスはいつまで滞在なされますか?」と、問うと、小村は「今日すぐにボストンに向い、ニューヨークに行く予定です」と、流暢なフランス語で答えた。ウイッテやその随行員たちは、小村がフランス語に通じていたことを知らなかった。さらに小村は「私は、本国の多くの人々から非難を受けることを覚悟していた。ウイッテも批判されるかも知れないが、だれにしてもすべての人々を満足させることはできないものだ。私は、自分の責任を果たしたことに満足している」と淀みないフランス語で答えた。(ポーツマスの旗・外相 小村寿太郎、吉村昭、新潮文庫、pp288-290を参照)。そう、小村寿太郎はポーツマスでの会議中、フランス語を話せることを隠して交渉していたのだ。当時は、英語でなくフランス語が国際標準(公用)語であった。勿論、樺太・千島交換条約の正文もフランス語であったつづく。3月3日。

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