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今週の親仁ギャグ・2013年2月10日(日)~2月16日(土)

中国尖閣、北朝鮮の核とミサイル。日本が標的になる可能性が高まっている。1年ぶりに銀ブラをした。中国人がめっきり減少しているのが明白だ。大型観光バスもなければ甲高い中国語もなかなか聞こえてこない。銀座は外国人、特に中国人の購買力に負うところが大きいとみえて、彼らが来なくなると銀座も如実に活気が薄れる。何でもかんでも生産コストが安い外国で作って「安かろ悪かろ」・「安かろ良かろ」で満足。安い労働力や資源を求めて、ペーペーに頭を下げて、無法な非礼国に進出して行く一部の日本企業。ここらで、国辱的な、金だけ儲ければ良しとする理念なき戦略は止めようじゃないか。少しくらいは高くても日本の製品や産物を買おうじゃないか。目を覚まそうぞ、大和魂。ところでロシアに落ちた隕石、あの大きさの隕石をレーダーなどで検・探知できないなら、ステルス機能を備えたミサイルなどの飛翔体を軌道によっては容易に撃ち込めるってこと??? 2月16日。

2月12日のNHK「クローズアップ現代」のテーマ・「“体罰”なぜ繰り返されるのか」でゲストの友添秀則氏(早稲田大学スポーツ科学学術院長)が語っている。「教育現場に広がる体罰の“容認”これはなかなか、根が深いっていうか、歴史的にもいろんな長い時間軸があるわけなんですね。戦前から、実は学校の中で、特に戦時下は暴力というか、下士官がですね、学校現場に入ってきて、生徒たちを中等学校で、あるいは旧制の高等学校で殴って、暴力に対して非常に寛大な気風がまず作られていた。これが戦後、特に学校の中にも、また運動部活の中にもこれが引き継がれていったというふうにも考えられるんじゃないかというふうに思います。」(番組HPより)。江戸時代、否それ以前からの、世界に先駆けて実践されていた誇れるわが国の「諭しの子供教育」は、戦時教育が発端となって瓦解していったのか。さらに詳細な検証が必要だ。つづく。2月14日。

織田信長と18回以上も会い、信長の世界観に多大の影響を与えたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイス(1532~1597)は当時(安土桃山時代)の日本人の子育てや教育について、「子どもにムチを使わずに言葉で戒める」・「立ち居振る舞いが完全で、のびのびしていて愛嬌がある」と書いている。1873年(明治6年)に来日した日本学者・チェンバレン(1850~1935)も、「善良で、礼儀正しく、のびのびとしている」と指摘している。幕末の松前藩で約2年間捕虜となったロシアの海軍士官・ゴローニン(1776~1831)は、「日本は子育て上手の先進国」・「日本人は子どもに読み書きや法律・歴史・地理などを上手に教えるが、最も大切な点は、幼い頃から子どもに忍耐・質素・礼儀を極めて巧みに教えることである」と称賛。日本に来たその他の外国人も、「これほど子どもを可愛がり、いつもいっしょにいる国民をみたことがない」(イザベラ・バード)、「日本は子どもの天国」(モース)、「日本の親は子どものために捧げ続ける」(フィッセル)・・・・・・など昔の日本の子供教育を絶賛している。(NHK知るを楽しむ・歴史に好奇心「江戸の教育に学ぶ」2006年10月、pp11~13を抜粋してまとめ)。つづく。2月14日。

春を一番に告げてくれるものとは何ぞや。梅・・・土筆・・・蕗の薹・・・そして猫柳。柳といっても世界で約400種、日本には90種もあるというから覚えきれないし区別できない。造園家でも庭師でも困難至難の技だろう。ちなみに「柳」はしだれ柳を、「楊」は猫柳を意味するという。語源は『古く、矢を作る材料としており、矢を作るのに用いる細い竹を「矢の木」といったことから、「ヤノキ」が転じた』とする説、『「楊」の字音「ヤン(yang)に「i」」が加わり「ヤナギ」もしくは「楊の木(ヤンノキ)」が変化して「柳」』になった説など6つも7つもあるようだ。松竹梅が目出度いのは、寒い冬でも枯れることなく緑で、梅は芽よりも早くいきなりに花を咲かすからだ。そういう意味では猫柳も梅に似通っている。写真は「集」に生けてあった枝より大きな花穂を萌出している猫柳(=カワヤナギ)。昔、川原で腐るほど何気に見たショットだろうが、改めて懐旧すると、早春にふさわしく、生命力の偉大さを訓えられる猫柳はこの花穂が猫の尾に似ているから雌雄異株で、雄株と雌株がそれぞれに雄花と雌花を咲かす江戸のウイット(頓智)こと「川柳」は柄井(からい)八右衛門正道(まさみち)(1718~1790)の雅号でまちがっても「カワヤナギ」ではありませぬぞ。毎日の「万柳」はその「川柳」が多いことの意写真有。2月12日。

今も昔も文化放送で火曜~土曜の夜中3時から5時(月曜~金曜の27~29時)まで「走れ!歌謡曲」というラジオをやっている。正式の番組名は「日野ミッドナイトグラフィティ走れ!歌謡曲」で、放送開始は1968年11月18日。トラック随行時も大学生時代もオープニングのジングルは「深夜の国道を歌と話題で綴る・・・・・・」であった。たった一度のトラック野郎随行(小学6年生でもちゃんとした仕事の助っ人ですぞ)、運転は国道(金のかかる高速は原則避ける)が空いた夜中から朝の通勤ラッシュ前に集中し、荷降しや積み荷は夜明けか日中に済ませる。食事は夜中も開いているトラック野郎専門の食堂、風呂はガソリンスタンドの2階の大風呂、もちろん寝床はトラックの中。オジサンと助手のニイサンが代わる代わる運転するので一人は後方にあるカーテンで仕切られたベットで横になって寝れる。小学生の小生は助手席で寝る。10日間のほぼトラックの中の生活。初めての花の東京見物。空気は靄って霞んでいたが、記憶は今も新鮮で天晴状態ですぞつづく。2月11日。

親仁が小学6年生の夏休み、親戚のオジサンに(とは言っても一回り違いのだが)、羽田空港に連れて行ってもらった。当時、オジサンは24歳のトラック野郎で助手のニイサンと3人ずれの旅であった。まだ11歳の小生にとっては「メッカ巡礼」的な大旅であった。全て国道(下道)を走り、北九州や東京など4~5回も荷を積み替えて10日ほどで帰宮したと想う。荷は鉄骨もあれば野菜もあった。記憶に鮮明なのは群馬の高原野菜を畑で直接積んで、太田市場に運んだことだ。多分にその時のついでで時間に余裕があったのであろう、羽田空港までトラックを乗り付けて、送迎デッキで当時就航したジャンボ機(B747)の離陸を見た。今の東京は光化学スモッグとは無縁のような透明な澄んだ空だが、昭和45年の空気は靄で霞み渡り、近隣の工場群からもうもうと煙を吐き出す多数の煙突がぼやけて見えた。家で炭焼の手伝いをしていたから黒い鼻くそには驚かなかったが、これが教科書に出てくる京浜工業地帯かと、幻滅閉口した。そう、この靄の張本人が今中国から飛来しているPM2.5と同じものなのだつづく。2月10日。

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