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今週の親仁ギャグ・2012年12月23日(日)~12月29日(土)

安倍晋三総理はやはり坊ちゃんだ。ワイフもお嬢さん。自分で焚物を山から取ってきて水を汲み五右衛門風呂を沸かしたことがあるのだろうか、肥樽を汲み田畑まで運んで撒いたことはあるのだろうか、馬や牛で田を耕し稲苗を植えたことがあるのだろうか、寒中洗濯板で衣服を洗ったことはあるのだろうか、給食費が期日まで払えず数日後に先生にこっそり渡したことがあるのだろうか、手持ちの弁当が日の丸で皆に隠れてベランダで食ったことがあるのだろうか、貧乏で修学旅行に行かせてもらえなかったことがあるのだろうか・・・・・限(きり)がないが、政治家家系(世襲)で生まれ財閥の親族に取り囲まれて育った彼に福島の被災者の気持ちが理解できるのだろうか脱原発行動を何も始動しない段階での全国の原発再稼働を匂わす言動、そればかりは親仁の許容を超える。懐疑と疑念、義憤と憤懣と・・・まだまだブチマケテやるぞよ。12月28日。

・鉛筆のつづき。マークシート方式の大学入試センター試験ではHFHBの黒鉛筆が指定されているらしい。親仁の場合の大学入学試験は筆記方式の最後の年であったから、鉛筆の濃さや硬さが決まっているとは驚きだ。が、獣医師国家試験はマークシート方式の初年度だったので、もしかしたらそうであったのかも知れぬ。JISでは芯の硬さの種類を表す記号を決めている。三菱鉛筆では10B~B、HB、F、H、2H~10Hの全22(世界最多)の硬度の鉛筆を製造販売している(2008年現在)。一般に、黒鉛が多く粘土の少ない芯は軟らかく濃いので最高は10B。反対に10Hは黒鉛が最も少なく粘土が多い芯で硬くて薄い。軸の形は黒鉛筆では6角形で、色鉛筆では円いが、全部がそうではない。小学に入学したては御袋が夜鍋をして鉛筆を削ってくれていた。それも料理包丁で。そのうち小刀やカミソリを使って自分で削っていたが、そのうち携帯用マッチ箱ほどのサイズの鉛筆削りが登場したので楽になった。が、あの時分には何でも彼でも手先を使って自分でしなければならなかった。今の親仁の10本の指には当時の刃物傷の瘢痕が多く残るが、御蔭で器用さと智恵は育まれたようだ。時代に感謝だHはHARD(芯の硬さ)、FはFIRM(「しっかりした」の意味でHとBの境というか中間)、BはBLACKで黒鉛が多い(濃い)から軟らかい芯。12月28日。

今年もあと5日。この3カ月は少し節酒して読み物に耽った。寝ころんで印を付けるには鉛筆が一番だ。というよりは他の筆具では十分な用が足せない。鉛筆なら寝そべりでも仰向けでも横臥でも360度書ける。インク物と違って重力に影響されないということだ。親仁ギャグでも過日、確かパイロットの若い社員がアフリカ奥地の村の小学校や文具店で鉛筆を売りこんでいるのを、たまさかテレビで見たので書いた。いまの鉛筆は書き心地が滑らかで折れにくい。われわれの世代では鉛筆が幅を利かせていたのは小学校までで、中学になるとシャープペンシルが登場した。それからというもの最近まで鉛筆とはどちらかと言えば疎遠であった。そこで鉛筆を掘削して見た。鉛筆は軸と芯からなり、軸は北米産シーダ(ヒノキ科)材(インドではヒマラヤスギ)などが使われ、芯は黒鉛と粘土を混ぜて焼いたもの。古代では鉛を動物の皮などに擦って文字を書いたが、黒鉛を使った鉛筆が記述に残るのは1565年ということだ。2枚の木版に芯を置く溝を作り、それらを合わせる方法が発明されたのが1616年で、製造業者が現れたのが1675年という。日本での製造は1874年以降のことだが、日本人で最初に鉛筆を使ったのはなんと徳川家康公だから、17世紀初頭のこと。そして日本での量産は1887年で、今の三菱鉛筆の創業者である真崎仁六(まさきにろく)による。大権現様の鉛筆は黒鉛の質がメキシコ産似で軸木は中米かフィリピン産、製造はヨーロッパの可能性という。以外や、親仁も今日の今まで知らなかったが、この三菱鉛筆と三菱グループとは昔も今も全く関係が無い。ロゴの「三菱マーク」は真崎鉛筆が先で、後に三菱財閥が使用許可を得たとのこと黒鉛とは石墨(せきぼく)に同じで「炭素だけから成る鉱物。ダイヤモンドの同質異像。六方晶系に属する板状結晶。金属光沢があり、電気の良導体。鉄黒色または鋼鉄灰色。鉛筆の芯・るつぼ・電気材料などに使用。黒鉛。グラファイト」(広辞苑)つづく。12月27日。

「薩長連合」か「薩長土肥連合」を彷彿させる「山口・福岡・島根・鳥取」選出議員が要職へ。人呼んで「山福島鳥連合」か。総理が安倍晋三(山口4区)。副総理兼財務・金融相が麻生太郎(福岡8区)。幹事長が石破茂(鳥取1区)。副総裁が高村正彦(山口1区)。選対委員長が河村健夫(山口3区)。農水相が林芳正(参・山口)。幹事長代行が細田博之(島根1区)。河村氏の実父は元山口県議会議員でその他は国会議員の世襲組。愚妻が山口出身だが、あちらの道路や橋などのインフラは素晴らしく拓けている。岩国に錦帯橋空港だって開港した。それに対比して我が宮崎県のみすぼらしいこと。疑うなら山口へ行って観てらっしゃい。「舵取りを経済再生へ」がスローガン。税金の落とし所が「山福島鳥連合」地域に偏らないように監視が必要だつづ。12月26日。

「はだしのゲン」の作者である中沢啓浩(1939-2012)氏が逝った。被爆地広島の市民の反核の魂は半端でない。広島出身の人と核保有を議論したが迫力に圧倒された。日本が核を有することの是非、核保有後のアメリカを含む世界からの孤立(エネルギーをはじめとする資源輸入の困難など)などを総合的に考慮した場合、果たして日米安全保障条約は将来に渡っても解消、破棄できるのか。内閣総理大臣の分り易い説明が必要だ。曲学阿世を忌み嫌った吉田茂(1878-1967)なら明解な説得をわれわれに与えてくれようにつづく。12月25日。

「太平洋戦争が終わって間もない時期、隣国では朝鮮戦争が始まっていた頃に、軍備はまるごと他国に依存して、すべてのカネを経済成長にあてる、という方針を吉田茂は打ち出した。」・・・条約締結後、松野頼三という議員が『軍備を放棄するなんてとんでもないことを決めてどうするつもりだ』と大磯に怒鳴りこんできたことがあったんです。おじいさんは彼に対して、『松野、君は番犬を飼っているか』と聞いた。松野さんが『物騒な時代だから番犬ぐらい飼っています』と応じると、『ならば番犬と思いたまえ。餌代はむこう持ちだぞ』と言ったんです。(前出の262ページ「祖父・吉田茂を想う」)。当時、アメリカはソ連と中国(社会主義)を脅威と感じ敵視していたから、旧日米安全保障条約締結(サンフランシスコ平和条約と同日=1951年9月8日締結)は両国にとって相互利益に叶うものであった。朝鮮戦争(1950年6月~53年7月休戦)後もベトナム戦争(1960~1975)が起こった。そして日本は戦争特需で未曾有の経済成長を遂げた。松野頼三(1917~2006)氏は松野頼久(1960~、民主党から日本維新の会へ鞍替)氏の実父。つづく。12月25日。

北朝鮮がアメリカ西海岸に到達し得る長距離ミサイルを保有し、その先端に搭載可能な核を開発中。指を銜えて他人事のように客観的分析をする素振りの政府やマスコミ。日米安全保障条約と核の傘にありながら、北朝鮮に対してミサイルと核の放棄を声明する過去の軍事大国。どうみても矛盾だ。北朝鮮に文句をつけるならば、中国へも、況やアメリカへも核放棄を訴えるのが筋だ。「思いやり予算」で在日米軍経費の75%を拠出している。米国軍人の雇用創出にもなっている。日本と協調して(本音は利用して)対中国軍事同盟を築いている。日本が有事の際にはアメリカ軍人が出撃してくれることになっているが、米国では安全保障条約が日本に有利だとする輩も少なくない。仮に在日米軍が撤退すれば、日本は即座に核もミサイルも保有し、大戦前のように軍事拡大に勤しむであろうとの考えがあるのも事実。安倍ちゃんの組閣で副総理に就く親戚関係の麻生太郎元総理が、(旧)安全保障条約の生みの親である祖父の吉田茂の逸話を「父 吉田茂」(麻生和子著、2012年、新潮文庫)の末巻に添えているつづく。家人はドイツの「クリスマス・マーケット」へ。無宗教の親仁は留守番で仕事。小学生の頃、子供会で直径が10センチほどのケーキが配給されたイブの夜。ケーキは一年でこの夜にしか亘らなかった四十数年前。配給のケーキを抱いて公民館からの夜道を家に着くと白黒テレビに「サルの惑星」が映っていた。きのうのようだ。12月24日。

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