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壺中の別天地-その1・金沢篇-

 先月下旬、2度目の金沢へ。1度目は学生時代のことでかれこれ35年前です。帯広畜産大学で獣医学会が開催され、その発表のため宮崎から北海道まで国道をひたすら走った時のことです。1泊は確か米原で車中泊し(丸一日で千キロ弱を走行)、2日目は車で夕刻、金沢に着き、兼六園だけは見ておこうかと立ち寄ったのですが、適当な駐車場を見つけられずにそのままビジネスホテルをチェックインし、その後は居酒屋直行の泥酔でした。翌日は一路、北海道の帯広を目指して東北を北上しました。

 その時の後悔から、今回の旅の第一義は兼六園の観光でした。もちろん花よりは団子が最優先の旅ですから、昼食は近江町市場の鮨店、夜は片町・木倉町へ出動し、居酒屋を物色しました。

 われわれ九州人には、石川県と言っても頭にはその地図がすんなりはいってきません。やはり加賀100万石・前田家が一番です。

 わたしが立ち寄った居酒屋「大関」の女将さんに訊いたところ、加賀藩の守備範囲(領地)は西が大聖寺(現・加賀市の中心街)、東が高岡、北は能登半島全体ということでした。加賀市のことを「大聖寺」と言っていたのが印象的でした。帰って地図を復習すると、確かに括弧で大聖寺との記入があります。(滋賀の近江は飛び地)。※加賀藩は加賀、能登、越中の大半を占め、利家の妻である”まつ”・芳春院の死後に化粧料だった飛び地の近江弘川村(現・滋賀県高島市今津町)が領地。

 羽田乗継の飛行機で小松へ・・・それからリムジンで金沢駅へ・・・腹が減ったので近江町市場へ。少し散策して無調査の鮨店「歴々」へ。のどぐろ炙りに白梅貝、コハダなどの握りに、加賀太胡瓜の浅漬けなんぞも頂きました。年若の愛想の良い大将に「この舎利は赤酢ですね? 新橋に赤酢で有名な”しみづ”という江戸前がありますよね」と訊くと、「”しみづ”さんには2度(偵察)行きました」との応えでした。江戸の本格派とは距離がありますが、なかなか気の利いた店でした。(近江町市場の海産物などは私眼には”並”でした。近江町市場まで乗ったタクシーの運転手さんが、「東京からのお客さんは駅から市場まで歩くし、市場でも買い物をしない」とぼやいていましたが、それもそのはず東京のひとはここで買わなくても築地があるでしょう・・・・・・と感じました)。

 その歴々さんで教えてもらった居酒屋が今回訪問した「大関」です。(6月14日)。

 前田利家と言えばこの逸話が好きですね。司馬遼太郎の小説にも書かれていますが、今回はWikipedia を引用します。「危篤の際には自ら経帷子を縫い、利家に着せようとするまつ(芳春院)が『あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの人を殺めてきました。後生が恐ろしいものです。どうぞこの経帷子をお召しになってください』と言うと利家は、『わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い』と言って着るのを拒んだといい(古心堂叢書利家公夜話首書)、一説には死の床でのあまりの苦痛に腹を立て割腹自殺をしたともいう。」(Wikipedia)。完全に死期を悟ってか、病の苦痛からか、利家は新藤五国光の脇差を抱いて絶命した・・・・・・という逸話もあります。経帷子の話は死の2日前(1599年閏3月1日)の譚です。金沢城址は宿泊したホテルの目の前にあり徒歩で向いましたが、城内に入るや否や、まずその広大さに圧倒され利家の豪胆さを想い起こしました。

 その「大関」の女将さんが金沢城についても話してくれました。火事の多かった城だと・・・・・・。

 江戸時代の金沢は火災が多く、金沢城も数多くの火事に見舞われたそうです。1602年(慶長7年)、1631年(寛永8年)、1759年(宝暦8年)、1808年(文化5年)の4大火事を含む56件の火災の記録があるそうです。利家入城の3年後に建造された天守閣もなんと20年足らずで落雷のため焼失しまったのであります。そして現在まで天守閣の存在しない城なのです。(6月16日)

つづく。

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