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太平洋戦争勃発の背景・その2

●真珠湾を慰霊した安倍晋三首相。アメリカの圧倒的物量に工業力、そして軍事力に対して、多くの政治家、軍人は戦争を起こしても短期で負けると考えていた。そこにある戦略を思い立ったのが連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将であった。
○山本五十六は彼が生まれた時の父親の年が56歳だったので命名された。対米経験があり、大の親米派であったことから、対米戦争を最後まで執拗に反対した。
○戦争が不可避となった時、五十六長官は「敵国民の戦意喪失による早期講和の実現」策として、「真珠湾奇襲」を提言した。
○真珠湾攻撃を手始めに早急に決着をつけて講和に持ち込むことを旨とした。いわゆる「大博打」戦略の「アメリカ太平洋艦隊本拠地・ハワイ真珠湾大規模航空奇襲作戦」である。
○この作戦に対し、軍令部(海軍の参謀本部)はじめ、多くの将校が反対した。その理由は①航空機による艦船沈没は不可能である(当時はそのように考えられていた)、②真珠湾は海底が浅いため魚雷が使えないこと・・・による。
○しかし、山本長官は従来の60m沈下からその深度を半分の30mにした「浅沈度魚雷」を採用。それでも軍令部の反対は収まらなかったが、「作戦を認めなければ長官を辞退する」との姿勢に1941年10月19日、ついに真珠湾奇襲攻撃作戦が了承された。これより図上演習と作戦の詰めが練られ、真珠湾に地形が似た鹿児島の錦江湾で実習訓練に努めた。
○この真珠湾奇襲に並行して「甲標的」(母艦搭載型潜水艇「特殊潜航艇」の暗号名)という特別攻撃部隊の作戦も具体化していた。「甲標的」は2人乗りの潜水艇で、生きて還られぬいわゆる準「特攻」であったことから、山本長官は岩佐直治海軍大尉が中心となって立案した突入作戦(潜水母艦「千代田」艦長の原田覚海軍大佐が山本長官へ願い出た)を当初は反対していたが、これも岩佐大尉らが執拗に嘆願して、ついに作戦同行を許可した。1941年11月18日、5隻の潜水艦に5隻の「甲標的」が搭載され真珠湾へ出発。
○「ニイタカヤマノボレ一二〇八」。有名な日米開戦の暗号文である。この電文を送受信したのは12月1日であった。北太平洋航路を進行中であった。空母6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻の日本海軍・第1航空艦隊は、その前の11月26日に択捉島単冠湾を出港していた。
○そして12月8日午前1時30分(日本時間)、183機の第一次攻撃隊が出撃。1時間15分後に、第二次攻撃隊167機が飛び立った。この2度の航空攻撃により、アメリカ艦隊の戦艦4隻を撃沈、1隻を自沈させた。300機を超える航空機を撃破した。
○しかし、大きな戦果にも小さな犠牲があった。29機の未帰還機、50名以上の戦死者あり。航空機攻撃開始の1時間前に攻撃を決行した「甲標的」5隻は、2隻が敵の駆逐艦に発見されて撃沈され、突入した残りの3隻は1隻が座礁、攻撃に成功した2隻も帰還途中に撃沈された。結果、「甲標的」部隊乗組員10名のうち岩佐大佐を含めた9名が戦死、1名が捕虜となった。
○日本軍の最高統帥機関である大本営はその9名を真珠湾の「九軍神」として称えた。真珠湾奇襲の成功は日本中の国民を熱狂させたのである。「九軍神」は戦意高揚の材料とされた。
○宣戦布告前の奇襲は、逆にアメリカ国民を大いに奮い立たせた。日本(山本長官)の考えに反して、アメリカの戦意は燃え上っていった。これが「リメンバー・パールハーバー」である。実際は奇襲の成果も限定的であり、早期の講和どころか、3年8か月にも及ぶ長期戦となったのである。

(1月23日追加)

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