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「ニシタチ・新発見」-その5・山頭火の句碑-

 種田山頭火(1882-1940)については、以前にこのコラムで書いたが(ここをクリック)、今回は山頭火のニシタチに纏(まつ)わる話をしてみよう。
 
 山頭火は大正15年(1926年)と昭和5年(1930年)の2回、宮崎を訪問・滞在して行乞(ぎょうこつ、十二頭陀行の一つで托鉢のこと)と仲間との交流・句会をしている。
 
 2回目の宮崎行乞の行脚は熊本(人吉)から入り、大分に抜けているが、その行程を記した「行乞記」によれば、九月十七日・京町(現・えびの市)に始り、十一月三日の延岡町・「山蔭屋」で終えている。 
 
 そのうち宮崎には九月廿五日から廿九日まで滞在・行乞した。宿は「京屋」で、本通りの橘通りの行乞や、宮崎神宮生目社へも行っている。そして、九月三十日は折生迫の「角屋」に宿した。
 
 九月廿五日の予定では田野行乞を考えていたが、雨が本降りとなり、前日の都城市・「江夏屋」から汽車で一路宮崎へ。杉田作郎(さくろう、1869-1960、眼科医、前衛画家・瑛九は作郎の末子)を訪ねたが、旅行で不在。黒木紅足馬(こだるま、1885-1964、作郎門の俊秀)に会う。夜、中島闘牛児(とうぎゅうじ、1881-1959、作郎門の逸材)と紅足馬が来訪し、料理屋「笑楽」で呑む。※山頭火も杉田作郎も自由律俳句「層雲」主宰の荻原井泉水(せいせんすい、1884-1976)の門下。
 
 九月廿六日に読んだ6句のうちの1句が、写真の句碑・「うまい匂いが漂ふ街も旅の夕ぐれ」である。この日の「行乞記」には「ここの名物、地酒を少し飲む、肥後の赤酒と同種類のものである、口あたりがよくて酔うことも酔ふらしい、私には一杯でたくさんだった(地酒に対して清酒を上方酒といってゐる)。」とある。
 
 九月廿七日は行乞後、宮崎神宮へ。「夜はまた作郎居で句会、したたか飲んだ、しゃべりすぎた、作郎氏とはこんどはとても面接の機があるまいと思ってゐたのに、ひょっこり旅から帰られたのである。予想したやうな老紳士だった、二時近くまで四人で過ごした。」。
 
 九月廿八日。生目社へ。「今日はしっかり疲れた、六里位しか歩かないのだが、脚気がまた昂じて、足が動かなくなってしまった、暮れて灯されてから宿に帰りついた、すぐ一風呂浴びて一杯やって寝る。」。
 
 九月廿九日。酒飲みの記述なし。山頭火に休肝日があったのか、信じ難いが。

 以上が、昭和五年、宮崎市で行乞した折の、山頭火の「足跡」である。五泊六日の乞食行脚であった。『うまい匂ひが漂ふ街も旅の夕ぐれ』の句碑は西橘通(橘通り西3丁目1-10)・大衆居酒屋・たかさご本店の入口右角に平成四年(1992年)の秋に建立された。九月廿六日の「行乞記」に、「九時から三時まで、本通りの橘通を片側づつ行乞する、一里に近い長さの街である、途中闘牛児さんを訪ねてうまい水を飲ませて貰ふ。」とある。当時の夕暮れ時は、今以上に「仕込みの匂ひ」がしていたのだろうか。酒は、焼酎は、どんなもので、酒肴はどんな代物であったのだろうか。「綺麗なねーちゃん」も居たのだろうか。タイム・スリップしてみたいものだ。

参考:山口保明著「日向路の山頭火」(鉱脈社、1995年)

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