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「世界の王」は「日本の星」

 昭和40年(1965年)、小学1年生の秋、エアコン位の大きさはある真空管型ラジオを親戚からもらった。隠居家からのお下がりテレビがついたのが小学3年の時で、2年間はこの大型ラジオが殊のほか重宝した。
 当時はON時代の幕開けで、ラジオのナイター中継は欠かさず親父と2つ上の兄貴の3人で聴いた。当時も巨人戦のほとんどが放送されたと思うが、たまに巨人以外のカードもあったと記憶している。今もであるが、山間部では電波の入りが悪く、特に雨や曇天の日は閉口した。当時の巨人のオーダーは1番柴田勲、二番土井正三、3番王貞治、4番長嶋茂雄、5番末次利光、6番高田繁、7番黒江透修、8番森昌彦、9番投手(堀内恒夫、高橋一三、城之内邦雄ら)が最強であった。負けていても終盤の7、8、9回には逆転することが多々あった。先発完投が基本で、ストッパーやクローザーなる言葉は無かった。
 宮崎での巨人キャンプが1959年(王が入団1年目、長嶋が入団2年目)に始まって今年で50年。球場は錦町の県営球場が最初で、その後国体で新設された木花の宮崎市営球場(現・県営ひむか球場)へ、そして現在のサンマリン球場へと変遷した。錦町の時に一度叔父に連れて行ってもらったが、当時は車でも南郷村から日向市まで2時間、日向から宮崎市まで2時間、片道計4時間の道のりであったから、球場でONを見た時の感慨は一入(ひとしお)で未だに忘れない。
 小学生の頃は、今のようにパソコンやゲーム機は無い時代だから、子供が数人集まると「石蹴り」や「缶蹴り」、「泥棒巡査」、「馬乗り」、「ターザンごっこ」、「めいちゅう」などをして遊んだ。その中でも特に「三角ソフト」や「三角野球」に興じた。庭でやると家の壁を壊したり、ガラスを割るため家人に怒られ、田圃でやればレンゲを踏みつぶすため、周りの大人にこっぴどく叱られた。右利きなのに王を真似て左の一本足で打った。夏休みの地区(部落)対抗のソフトボール大会は最も熱の入る学校行事であった。
 「巨人・大鵬・卵焼き」は小生の育った世代の言葉。ONあってのV9(1965-1973まで9年間連続して日本シリーズを制覇、監督は川上哲治1920-)。第48代横綱で幕内優勝32回、45連勝の大鵬(1940-)。王(1940-)、長嶋(1936-)、大鵬とも大病はしたものの健在である。テレビで元気に話している姿を拝見すると自然に見聞き入り、気持ちや姿勢までがシャキッとなる。
 先日、「世界の王」は監督を退いた。われわれの世代では、今のイチローの記録以上に、当時の王のホームラン記録達成に一喜一憂、傾注した。WBCのユニホーム姿をきっと見れることであろうが、ペナントレース(pennant race)での勇姿はもう見れないかもしれない。王の少年時代にその才能を見出した荒川博(1930-)コーチのもと、真剣で紙を斬る練習法で体得した「一本足打法」が通算ホームラン世界記録868本を量産した。おこがましいが、日本人の誇りとして、「日本の星」として今後も御尽力していただきたい。

 追:「人間・王」の初打席は1959年4月11日、選手の最終試合は1980年10月12日、監督としての最終試合は2008年10月7日。

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