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宮崎の農業の近未来-雑想1-。

  東国原英夫知事の超行政人的活躍で宮崎の農産物の売上が好調である。しかし、果たして宮崎県民の懐の潤い具合はどうだろうか。小生の知るところでは、宮崎産のピーマンやキュウリなどの野菜類の一部は、福岡の市場で競られた後、宮崎に舞い戻ってくるものがある。宮崎産なのに宮崎県民は他県より高い野菜を買わされていることになる。市場原理で、農協や生産者である農家がせり値が高い市場への出荷を望むのは御もっともな話ではあるが、何とも納得し難い。野菜は新鮮さが大切な売りの一つである筈だ。他県を経由してわざわざフィードバックさせられたものを買わされては叶わない。皆が掲げる「地産地消」の観点からもかなり逸れている。台風などで農家が被害を被ると補助金のかたちで税金が使われる。これまた都会が得をして田舎が貧乏くじを引かされる破目に陥る。経済連は知事のお陰でコマーシャル料を要せず、出荷手数料などの名目で相当な利益を得ているであろうことは想像に難くない。
  

  小生の実家は累代の折り紙付きの「水呑百姓=呑(ドン)百姓」であることは、このコラムに度々書いている。都会あるいは街の人は農家に何を望んでいるのだろうか。「食の安全と安心」や「エコロジー」、「二酸化炭素削減」、「地球温暖化」の観点からも、農家の果たす役割を重要視しない筈がなかろう。米をはじめ、野菜や椎茸などの農産物を個人やグループと契約・提携して都会に送り込む。春には蕨(ワラビ)や薇(ゼンマイ)、筍、ウド、イタドリ・・・・・などなどの山菜も喜んで賞味してもらう。都会人は宮崎の農家が「減農薬」、「有機≒減化学肥料」農法で栽培・生産した農産物を「契約購買」する。農家も都会人も距離は離れていても同じ食材を口にする。食材の収穫法や保存法もプロの教授を仰ごう。そして年に数回は宮崎の「農家詣で」に家族や友人達と来県する。「山菜採り」、「田植え」、「稲刈り」、「寒の猪」の時期はどうだろうか。里山で椎茸を捥ぎ取り、川では山女、鮎、鰻を獲り、川原で焼いて喰らう。面前の山々を見上げながらのバーベキューは宮崎黒毛和牛か浜ゆうポークのホルモンでいこう。自然の空気とマイナスイオンが「たれ」の主役だ。味噌や醤油、出汁や料理の好みは勿論、高血圧、糖尿病などの持病についても予め聞いておき、調理法はそれに合わせてアレンジしなくては接待心(ホスピタリティー)に欠ける。温泉は必ずしも必要ではない。谷から直に引いた水を沸かし、五右衛門か欅の風呂桶で掛流しの湯に入る。勿論露天だ。川のせせらぎと鳥の囀りが都会の喧騒を忘れさせ、マイナスイオンが血行を善くして脳ミソの汚れを祓う。などなど、小生の子供の頃の実体験だが・・・・・、これが人間の元来の生きる姿かとも思う。稲作が始まる弥生時代(紀元前4世紀or紀元前8世紀説有り)から綿々と続いている事だ。「田舎の百姓が一番旨いものを喰っている」と、田舎に帰る度に確信する。食材もだが「空気」という最高の調味料が存在する。田舎人はまずこの事を認知・認識しなければ、ここに書いた「事業」は起業化しない。これが正しく第6次産業である。太古から綿々・永々と受け継がれてきた百姓の辛抱と知恵が「日の目を見る」のだ。
  
  
  この起業は待った無しだ。ターゲットは「団塊世代=昭和22~24年生≒688万人」と「集団就職列車世代」だ。それ以降の世代だと真の「昔の味や風情」を知らないからだ。行政や経済連の果たすべき役割は何か。個々の商品をPRするのではなく、農家・農業・人・自然の全てをパッケージとして売込むべきである。経済連も「近代農業」=「ハウス農業」=「周年野菜」などといった考え方を軌道修正しなくてはならない。行政をはじめ銀行などの金融機関も農協に頼らない農家の育成・自立に本腰を入れるべきである。東国原県知事が経済連の巨大「広告塔」ではないかと思うのは小生だけであろうか。

  つづく。

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