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今週のつぶやき親仁・2020年12月13日(日)~12月19日(土)

●「頼朝と義経
▲お隣・鹿児島の島津家の”起こり”は何処から? 島津家の家系図(?)では”源頼朝の落としだね”とあるらしいが、鎌倉時代には島津家自身が惟宗性を名乗ってい、この惟宗は”帰化人秦氏の直系”である。さらに強烈なのは、「惟宗王氏ハ劉漢霊帝ヨリ出ズ」と鹿児島外史は云う。
▲「夷人の靴を頭にのせるとも薩摩とは手をにぎらぬ」と、幕末の長州の英傑、高杉晋作は薩人を嫌った。最後の徳川将軍、徳川慶喜は、「長州は最初から幕府の敵として敵の姿をとっていたから自分はいまでも憎んでいない。憎むべきは薩摩の変身である」と島津に嫌悪した。
▲島津家はその元が鎌倉時代の惟宗家か、はたまた頼朝の落胤か・・・・・・どうであれ、鎌倉から室町、戦国から江戸、そして幕末まで薩摩・大隅・(日向)の三国を支配したのである。がしかし、その島津家に統治された民のである”隼人”のルーツが未だはっきりとしないらしい。卑弥呼と争った”熊襲”は“球磨”と”曽於”のことと云う。インドネシア説もあれば台湾説もあろう。要は日本にありながら中央政府と堂々と戦う勇猛で獰猛俊敏な民族なのである。
▲わが日向の国も島津の支配下にあった時代があり(最近には明治時代も宮崎は鹿児島県であった)、島津家の頼朝落胤説を拝借すれば、頼朝と宮崎も無縁でもない。こじ付けだが、興味のまま書いた。どうも宮崎人には薩摩隼人の血は皆無か、あったとしてもきわめて薄いであろう?

金之助「ところで主人先生よ、1185年の壇ノ浦で平家を滅亡させた頼朝ですにゃんが、その最高の功労者であり、かつ腹違いの弟であった義経が殺されなければならなかったにゃん?」

主人先生「頼朝はな、清盛の平家衰亡の原因を良く分析していたのじゃな。天皇や有力公家をはじめとした朝廷はな、自分たちの都合の良い、扱いやすい、利益をもたらす武士を利用することを性根としていたんじゃ。全国に領地は持つが武力を持たぬ公家は、懐柔しやすい武士を利用して天下を取って驕り高ぶった武士統領を追放し、その繰り返しで公家の領地をはじめ権威を保とうとする性質をもっているのじゃな。清盛もその例外じゃないのじゃ。清盛に疎んじられだした公家は源家の頼朝を頼りにしたのじゃが、頼朝はそうやすやすとはその手に乗らなかったんじゃな。頼朝が武士の最高に上りつめるなると、今度は別の武士の勢力を頼みとするのが公家の常なのじゃ。要は武士の統領と公家の利害とはいつの世も一致しないのじゃ」

金之助「平家物語の『驕れるものも久しからず』とはそのことですにゃん?」

主人先生「まさにその通りじゃ。そこで頼朝は鎌倉での旗揚げに先立ち、『院(出家した上皇)の直接の家臣は武士の総大将の頼朝ひとり』・『日本中の武士はみな頼朝の家臣』であり、『日本中の武士と土地は頼朝ひとりが院(天皇)より預かり支配している』と宣言したのだな。鎌倉政治の基本原則としたのじゃ。平家追討でいくら功績のあった弟の義経であっても、戦で義経に従った者はあくまでも頼朝の家人であって義経の家臣ではないのじゃ。すなわち義経が頼朝の代官であったからこそゆえ、義経に従って戦った武士たちであり、あくまでも頼朝あっての義経なのじゃ。もう少し踏み込めばその家人は義経と同格に功を競う立場にあったのんじゃ。功をあげることは領地(禄)を含め自身の益に直結することじゃからの」

金之助「そりゃいつの時代の主従関係はそうじゃにゃん。それがどうして義経を殺さねばならぬのにゃん?」

主人先生「そこじゃ。頼朝は、朝廷(天皇・上皇・法皇=院あるいは公卿=公家の実力者)の臣は頼朝ひとりとし、家人をはじめ武士は頼朝の家臣であることを、家人はもとより血のつながった義経にも範頼にも厳しく言い聞かせた筈じゃったんじゃが、当の義経はそうは考えなかったんじゃな。木曾義仲(=朝日将軍)が粟津にて石田次郎為久によって討たれ、一の谷から屋島、そして壇ノ浦で平家追討を終焉させた義経は、京で絶大な人気者となり、そして遂には後白河法皇より検非違使・左衛門尉を任官したのじゃ。これは鎌倉で平家追討を旗揚げした時、頼朝が『武士の叙任は一切頼朝を仲介者とする』との命を義経が破ったことじゃ。これが頼朝の怒りを買い、彼の有名な腰越の件があり、その後の義経追討につながったのじゃ」

金之助「それにしても異母といえども兄弟にゃん? 頼朝公は情けどころか血も涙もないヒトにゃん?」

主人先生「実はな、腰越の後、頼朝は京に居る義経に許嫁者だった河越重頼の娘を送り届けているんじゃ。この女性が奥州平泉まで伴った妻じゃ。腰越の件で、頼朝は義経を絶対に許さなかったのかと云うと、そうとも取れないらしいんじゃ。その後の義経の行動がまずかったんじゃがな。義経は叔父の家行の勧めもあり、遂には『頼朝追討』の院宣を乞い受けてしまったのじゃ。これが義経奥州落ちの顛末じゃ」

金之助「な~るほどにゃん! にゃんにゃんにゃん!! 次も楽しみにゃん!!!」

参考:司馬遼太郎「歴史を紀行する」(文春文庫)・山岡荘八「源頼朝【3】」(講談社)

つづく。12月18日。

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