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今週のつぶやき親仁・2020年11月22日(日)~11月28日(土)

●「GoToマップトラベル(源頼朝編)

金之助「義朝の最期は分かりましたにゃんが、世に云う下克上は北条早雲が始まりとも云われますにゃんが、平安の末期も裏切りは専らに横行していたにゃん? ところで義朝一行に逸(はぐ)れた頼朝のその後はどうなったにゃん?」

主人先生「そうじゃったな、譚は頼朝の番じゃ。その前にじゃ義朝が長田忠致とその子・景致の裏切りで殺害されたのは尾張の国野間(現・愛知県知多郡美浜町)じゃが、それは1160年2月11日(平治2年1月3日・4日とも諸説あり)のことじゃ。頼朝が捕まったのは近江国でな、1160年2月21日(永暦元年1月13日)のことじゃ。そして伊豆の蛭が小島に配流されたのが1160年3月11日(永暦元年2月2日)ということなんじゃ。その間長兄の義平(1141~1160年3月4日=永暦元年1月25日・20歳没)も石山寺(滋賀県大津市)で捕縛され、その日のうちに六条河原で斬首されたのじゃ」

金之助「それにしちゃ頼朝公の助命は格別の処遇にゃん? 清盛入道さまはお優しい方じゃにゃん?」

主人先生「それじゃそれじゃ、清盛入道が頼朝を助命するようなことが無ければ歴史も少しは変わっていたろうぞ。少なくとも北条氏の執権政治は無かったやもしれぬな」

金之助「金之助はどうして清盛入道が13歳の頼朝公を殺さなかったのかが知りたいにゃん」

主人先生「1160年2月21日(永暦元年1月13日)に近江国で捕らえられた後はな、京の六波羅へ送られてな、死刑が当然視されていたのじゃがな、
①清盛の継母である池禅尼の執拗な頼朝助命嘆願であったのじゃ。頼朝が、清盛の腹違いの弟になる池禅尼の実子、家盛(この時は既に故人)の生き写しのように似ていたのじゃな。そのほかにも池禅尼は清盛の嫡男、重盛にも清盛説得を懇願したらしいぞ。
②また後白河院、上西門院の助命嘆願もあったそうじゃ。
③それに池禅尼の助命嘆願中、平家に悪源太として恐れられた頼朝の長兄、義平が捕えられ斬首されたからの。
④そもそも平治の乱の時、義朝は藤原信頼(1133~1159)に従属する者の一人に過ぎなかったため、その子供達の処分が軽度であったのも当然とする見方もあるのじゃ」

金之助「いやいや怖い譚にゃん。教授が替われば下の布陣が一変する一昔前の医学部の人事のようじゃにゃん。今の政治家の世界はまだまだ生ぬるいっことにゃん。そりゃそうと頼朝のGoToマップトラベルはどうにゃったにゃん?」

主人先生「昔の年号を西暦に変えるのに大変苦労したからな、GoToマップトラベルは次回のお楽しみじゃ。がな、今の怪訝の第一はな、ジャイアンツの弱さの原因じゃ、どうにも分析のしようが無いくらいの実力差じゃな」

つづく。11月24日。

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