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今週の親仁ギャグ・2020年4月19日(日)~4月25日(土)

聖徳太子は紛れもなく百年にひとりの天才でしょう。何が偉いかと云うと、それは国家の屋台骨となる様々な有形無形のものを創造しました。
①「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」は、隋の「隋書」(倭国伝)に書かれた文章で、倭王(推古天皇)から隋の皇帝煬帝に宛てられた公文書文言である。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」・・・・・・日出づる処の天子は日本国の推古天皇であり、日没する処の天子とは煬帝と云うことになる。この無礼なる文面に煬帝は激怒したとされますが、隣国・高句麗との険悪な関係を鑑み、怒りを歯噛みしながら押し殺したのでしょう。その隋と高句麗との好もしくない関係をうまく利用したことになります。この天子の公文書をもって大陸に渡ったのが、小野妹子はじめの遣隋使(600年~614年の間に6回)です。この小野妹子の遣隋使派遣については、日本書記(巻第22)に書かれてあります(推古天皇15年=607年に小野妹子を隋派遣)。
②それまでの中国(漢民族)はまさに「中華思想」の本家であり、聖徳太子以前の日本を含め周辺諸国の多くが、中国への朝貢を行っていたのですから、いきなり「日出づる処の天子」と名乗られたのですから、中国皇帝(煬帝)の憤怒はいかほどのことだったのでしょうか。
③聖徳太子が行った国内の諸改革
冠位十二階の制定(603年):官人の階級
憲法十七条(604年)
史書の編修(620年):「天皇記」「国記」など。
暦法の採用:太陰暦採用(百済の観勒が602年に伝える)。
法隆寺などの大規模寺院建造。
これらすべてが国威の発揚国家意識の高揚のために行われたのです。当時初めて日本に渡来してきた外国の人々は、たとえば法隆寺を見たとき、その威容さにハッと息を呑んだに違いありません。
つづく。4月25日。

●聖徳太子の生年は574年で、推古天皇の摂政に就いたのが593年ですから、摂政就任時の年齢は19歳と云うことになりますか。タッグを組んだ蘇我馬子の生年は不明ですが没年は626年で、聖徳太子の没年が622年ですから、ふたりのヤマト政権支配は30年前後と云うことになりますか。日本の屋台骨の基礎をつくる時間としては十二分にあったということでしょう。つづく。4月25日。

●聖徳太子と法隆寺の承継・・・・・・
③物部氏と蘇我氏の対立の原因は、仏教受容の問題と用明天皇死後の皇位継承問題とが絡んでおり、ついには武力衝突のなった。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、馬子の推す崇峻天皇が即位した。これによって蘇我氏がヤマト政権の政治を掌握することとなった。
④ところがその後、馬子は崇峻天皇と対立し、592年に天皇を暗殺した。そして次に即位したのが推古天皇(卑弥呼を別にすれば、わが国最初の女性天皇)であり、その推古天皇は甥の厩戸皇子(厩戸王=聖徳太子)を摂政とし、聖徳太子に政治を行わせた。結果、聖徳太子と蘇我馬子とが協調して国政改革にあたり、天皇中心の国家形成をめざした。
つづく。4月20日。

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