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今週の親仁ギャグ・2020年4月12日(日)~4月18日(土)

●法隆寺といえば、聖徳太子です。聖徳太子の実在を否定する説もあるようですが、やはり太子ほどの大人物無くして日本の礎は築けなかった・・・・・・のは疑いのないことでしょう。聖徳太子は574年に生まれ、622年に亡くなっています。まさに飛鳥時代に生きた方であり、活躍した人物です。飛鳥時代は、6世紀末から7世紀前半と区分され、推古(天皇)時代ともいわれます。それでは、聖徳太子出生前から没後までの日本史における事件を中学校の歴史教科書レベルでまとめてみますか。
①邪馬台国後に誕生したヤマト政権は、大和を中心とする畿内豪族の政治連合体であり、その首長が王(国際的には「倭王」と称したが、国内的には「大王」=おおきみ=だいおう)であった。その大王こそが、のちに天皇と呼ばれたのである。この大和政権は遅くとも4世紀なかばころまでには成立したことが、前方後円墳などから裏付けられている。そしてその本拠地は、多くの水系をもち水田農業に適地であった奈良盆地東南部の三輪山(桜井市)付近と考えられている。(因みに卑弥呼の纏向遺跡も桜井市にある)。
②5世紀後半以後、田荘(たどころ)や部曲(かきべ)を拡大した中央豪族は、互いに政権抗争を繰り返すようになった。その豪族の大物が大伴氏であり物部氏であり、そして蘇我氏であった。大臣(おおおみ)の葛城氏や平群氏の没落後の6世紀初め、大連(おおむらじ)の大伴(金村)氏が越前(あるいは近江)から継体天皇をむかえ、勢力を拡大した。そして540年、物部(尾輿)氏は大伴金村を失脚させて大連となり、大臣の蘇我稲目と対立した。

以下次週に、つづく。4月18日。

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