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今週の親仁ギャグ・2019年12月22日(日)~12月28日(土)

●1600年7月18日~8月1日の伏見城の戦など関ケ原の戦の前哨戦はいくつかの場所(城)で行われていた。そのなかで自然、西軍東軍の最前線は接近していくことになり、西軍は岐阜城、東軍は清州城がそれであった。8月23日、西軍の岐阜城が東軍によって落城。これによって東軍はさらに西の美濃へ侵攻し、三成は大垣城での籠城を決意していた。当時の大垣城は今の敷地の3倍ほどあり、幾重の水堀と10もの櫓を持ち、大規模な難攻不落の要塞であった。実際、東軍は大垣城を攻めたが足止めをくらうばかりであった。では、何故に東西両軍はさらに西へと移動したのか・・・・・・それは関ケ原の戦のキーパーソン、小早川秀秋の「松尾山城布陣」にある。
家康が加わった大垣城攻めでも、この時点における両軍の優劣は西軍が優位であった。
9月14日、「関ヶ原の南西にある松尾山城に小早川秀秋が入城した」との報で、三成は焦った。何故か・・・・・・前述したように小早川秀秋は東西どちらかを明言していなかったし、その軍勢も1万5000と大規模であった。(小早川秀秋は後に伝えられたような「バカ殿」ではなく、軍容からして真逆の名将であった)。
松尾山城は非常に堅固な山城で、西軍の旗揚げの際、西軍が手を入れた一大拠点だったが、それを秀秋が奪った形となったのである。松尾山のからは関ヶ原の見晴らしがよく、京や大坂へ向かう敵軍を阻止可能な要衝でもあった。三成は大坂城から毛利輝元を松尾山に呼び入れる計画もあったほど。
大垣城より西に東軍の拠点が関ケ原での最大の要衝である松尾山城に造られてしまうことを懸念した。三成はいち早く大垣城を出て関ヶ原へ急ぎ、松尾山城の小早川秀秋を説得して西軍への取り込みを第一に考え、9月14日夜大垣城を出(大垣城には守備軍7500を残した)、すでに9月3日から待機の大谷吉継の軍勢に合流した。(三成が大垣城籠城戦を捨てた理由には諸説あり。「東軍は近江に侵攻して佐和山城を落とし、大坂へ向かう」という報が入ったためとする説もある。)。
とまれ小早川秀秋の突然の行動で、戦いの最前線は膠着状態がつづいていた大垣城からにわかに関ヶ原へと移ったのである。つづく。12月28日。

関ケ原の戦東軍が勝利した要因をまとめると・・・・・・
小早川秀秋の寝返り(「寝返り」といわれるが、土壇場まで「どっちつかず」であったほうが真実か)。
家康と三成の身上の差
家康の律義さ
秀吉の正室、おね(高台院・北政所)と家康の親密性(秀吉の子飼大名が東軍へ。実の甥御である秀秋もその可能性がある)。
・・・・・・では何故に関ヶ原が決戦地になったのか・・・・・・家康と三成の戦前の行動(移動)をみてみると・・・・・・
家康の場合:1600年7月25日 小山評定→8月5日 江戸城着→9月1日 江戸城出発(出陣・兵3万)→9月4日 小田原(府中)→9月6日 嶋田着→9月9日 岡崎着→9月11日 清州城着→9月13日 岐阜に到着→岐阜では家康初陣の地「桃配山」に移動する前は「美濃赤坂」で様子眺め。
三成の場合:8月10日 大垣城入城(三成はこの大垣城での籠城戦を目論んでいたとされる)。
つづく。12月28日。

●「麒麟がくる」は、「天王山」。今回の旅は、「天下分け目の戦」でした。前者の明智光秀は、本能寺の変で信長を自害に追い込んだのち山崎の戦に敗れ「三日天下」でこの世にさよならしました。その山崎にある山が「天王山」あります。今はサントリーの「山崎」でも有名ですが。天王山(京都府乙訓郡大山崎町)を先に占領したのが秀吉であり、ここが勝敗の分岐点になったからです。海抜は270m、淀川を挟んで対岸にある男山とともに京都に通ずる道の狭隘部をなすそうで、付近を新幹線や在来線が通過しています。ついでながら光秀は、(以下、Wikipediaよりそのまま)
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年6月13日(1582年7月2日)天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった
決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説もある)
兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった
当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている。また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある
同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという
光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた
太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとする。その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという
つづく。12月22日。

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