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今週の親仁ギャグ・2019年12月15日(日)~12月21日(土)

大友宗麟(1530~1587)の最期・・・・・・
1561年の毛利氏との戦いに敗れた宗麟は、翌年(1562)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移住した(?)。:大友氏16代の頃には、一時臼杵が同氏の本拠地であった時代がある。また府内城と府内大友館とは別物である。
1576年、家督を長男・義統(1558~1610)に譲り隠居するも、実際は共同統治していた。
1577年、島津軍が丹生島に侵攻した「丹生島城の戦」(1586年=天正14年12月12日=西暦1587年1月20日)では、ポルトガルから入手した「国崩し」と呼ばれた大砲、「フランキ砲」で島津軍を撃退。
秀吉軍が戸次川の戦(1586年=天正14年12月12日=西暦1587年1月20日・「丹生島城の戦」と同日?)に敗れたのを挽回し九州平定をほぼ確実なものにしたのが「根白坂の戦」(1587年4月17日)である。根白坂の戦は、同時に絶体絶命・窮地の大友宗麟を救った戦でもあった。1587年5月13日、秀吉は「11ヶ条の条々」を下し、その中で「日向国における大友宗麟の知行取分は宗麟の覚悟次第とすること」としたが、肝心の宗麟はその時すでに統治意欲を喪失しており、これを辞退したとも、もしくは戦の真最中(島津義久の降伏直前)に病没(チフス?)したとも伝わる。
大友家は義統の時代、1593年の文禄の役での失態(小西行長の件)で秀吉の逆鱗に触れて改易され、実質の大友家終焉となった。
日向の国には有史以来、有力な豪族や大名も存在せず、悲しいかな、他国(隣国)の戦場地であったのです。暢気な県民性とも全くの無縁ではないのでしょう

「大分の旅」編、終了。12月20日。

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