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今週の親仁ギャグ・2019年11月10日(日)~11月16日(土)

●鎌倉・室町の時代から・「ワタリ」と称される人々が本州から蝦夷に渡った。そして明治になると屯田兵や開拓民として大勢の本州人が北海道へ押し寄せた。司馬さんが不思議がったことがひとつ。「かつての奥羽のひとびとや道南の和人たちが、この北方の炕(オンドル)をなぜとりいれなかった、ふしぎでならない。」と。その直前の文章では、「北アジアの遊牧民は、紀元前から天幕の床の下にオンドルを焚いてきたし、北中国も同じ理屈の炕(カン)を用い、朝鮮もオンドルを用いてきた。ロシア人は厚い壁の一部に暖炉を仕込んだペーチカを用いてきた。」(司馬遼太郎著「街道をゆく 15・北海道の諸道」p35・朝日文庫)。わたしは北海道の住居歴史に、むろん疎い。がしかし、吉村昭の「熊嵐」を読んで、当時(大正ですら)の(開拓民の)民家がいかに貧寒であるか・・・・・・は知っている。「熊嵐」は、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて男女6人が熊に襲われ殺害された「三毛別羆事件」が題材である。そこで言いたいことは、もしかしたら竪穴式住居の方が最近まで存在した掘っ立て小屋よりも暖かく頑丈で、かつ外敵に対しての配慮がなされているのではないかという・・・・・・これまた愚者の愚問なのだが。つづく。11月14日。

続縄文文化から擦文文化(8~13世紀)を経た北海道縄文人は、オホーツク海沿岸のオホーツク人(オホーツク文化=3~13世紀)と混血し、アイヌ民族が誕生した。13世紀(本州の鎌倉時代後半)のことであり、そう遠くはない過去である。そのアイヌについて簡単に述べてみる。
もともとの居住地は北海道の他、北緯50度線付近より南の樺太、千島列島、本州北端である。北海道を中心とした先住民である。
言語はアイヌ語であり、大別して北海道アイヌ語、樺太アイヌ語、千島アイヌ語の方言がある。
縄文人の遺伝子を色濃く受け継いでいる。
生業は毛皮や海産物を中心とした狩猟採集民族である。交易は和人や黒竜江下流域・沿海州(山丹交易を仲介)、カムチャッカ半島南部まで及び、和人とは米や食料、漆器、木綿、鉄器などと交換した。
1855年(2月7日)の日露和親条約によって、日本とロシア国民(樺太・カムチャッカ地方)になった。現在の日本国内では北海道(平成25年の調査で道内のアイヌ人口は16786人・詳細不明)の他、東京などの首都圏等に広く居住している。1807年の北海道アイヌの人口は2万6256人(全人口は3万1353人なので占める割合は83.7%、その後減少をたどり、1993年の報告では2万3830人に増加したが、全道人口の0.42%)
アイヌはアイヌ語で「(良い)人間」だが、大正のころより差別的に用いられたこともあり、今ではウタリ。

つづく。11月11日。

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