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今週の親仁ギャグ・2019年11月3日(日)~11月9日(土)

●アイヌ文化の歴史は浅く・・・・・・その誕生は13世紀であり、本州の鎌倉時代後半の時期であります。簡潔に言えば、アイヌはそれまでの縄文人とオホーツク人の融合・同化で生まれたのです。オホーツク文化が(三内丸山遺跡のように)ある日忽然とこの世から消滅した・・・・・・とも言われているようですが、(疫病が流行したとか、戦争が勃発したとか、神隠しに遭ったとか)そういうことはありません。北海道縄文人の擦文文化とオホーツク文化の2文化が融合(トビニタイ文化)し、ふたつの民族の混血が促され、アイヌ文化がこの世に誕生したのですつづく。11月9日。

北海道の文化(時代)を簡単にまとめてみましょう。旧石器文化縄文文化続縄文文化擦文文化アイヌ文化・・・・・・の順となります。オホーツク文化は3世紀ごろに突如出現した文化です。それもそうでオホーツク文化を演出したオホーツク人はアムール川流域や樺太からの渡来人なのです。そのオホーツク海沿岸に住み着いた人々は、時を経るに従って道北や道東に進出するようになり、同様に生活圏を拡大していた擦文文化と相接し交流をもつようになります。オホーツク文化と擦文文化の融合がトビニタイ文化ということです。つづく。11月9日。

●3万年前に日本に到達した東アジア人の一派とされる縄文人。朝鮮半島や台湾などから、そして当時陸続きであった宗谷海峡から到達し、そして沖縄から北海道まで幅広く住み着いた縄文人。彼らは狩猟民族であったため、日本全土にその生活の痕跡を遺している。そのうちの北海道縄文人がどのようにしてアイヌ文化を花開かせたのであろうか。それの先ず基礎知識として重要なのがオホーツク文化であり、擦文文化であり、トビニタイ文化である。文化というカテゴリーは周知のように当時の人類(現生人類・新人)が使用した土器などによって区分されている。たとえば旧石器時代は黒曜石などを割って先鋭な刃物などとしたことからで、新石器時代はそれを研磨してより鋭くしたものを利用した時代のことである。縄文時代は世界的には新石器時代のことであり、たまたま日本で出土した土器に縄文模様があったことから、その名が付けられた。そこで上の3つの文化とはいかなるもので、かつアイヌ文化との関連性を知らなければならないのである。
続縄文文化:紀元前4~3(紀元前8世紀説もあり)に稲作が伝来し、約400年をかけて九州から東北にまで拡大していった農耕文化だが、当時の気象的には北海道に適合しなかったのか、あるいは当時の北海道や東北地方北部ではわざわざ泥にまみれたまでも米を作らなくてよいほどに漁猟などで十分な生活を営むことができたのであろう。したがって稲作の弥生文化は北海道には存在せず、その代わりに続縄文として区分されている。紀元前3世紀から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)
オホーツク文化:アムール川流域や樺太から渡来した民族が、北海道北部や東部のオホーツク海沿岸に拡げた、年代的に新しい文化。3世紀から13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)
擦文文化:続縄文時代に続く北海道の文化。本州の土師器の影響を受けた土器=擦文土器が出土したことから。7世紀から13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)
トビニタイ文化:源流はオホーツク文化。9世紀から13世紀
つづく。11月5日。

●オホーツク人の生活は、むろん農耕ではありません。北海道東部の生活の糧の基本は漁業であり、季節によってホッケやタラ、ニシンなどを獲り、流氷の時季はアザラシやオットセイ、トド、アザラシなどの海獣(時にクジラ)の狩猟を行ったとされます。モヨロの貝塚からはそれらの骨が発見されています。陸ではヒグマも毛皮用として狩猟したそうです。驚くことなかれ、弥生時代以降の本州人同様に、豚や犬を家畜(食用)として飼育もしていたそうです。(縄文人は犬を狩猟のために大切に飼い、人と同じように埋葬していました。農耕になってから食用と化したのです)。このようにオホーツク人は民族も生活様式も北海道の縄文人、続縄文人、擦文人とは全く違っていたということです。つづく。11月3日。

●今まで日本列島の形成と縄文人や弥生人の起源について、微力ながら調査してきました。元の起こりは「オホーツク文化」、言い換えれば「モヨロ文化」に興味をもったからです。それが発端で網走へ出向いたのであります。オホーツク文化は、「3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化である 。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。 同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。 『日本書紀』にでてくる粛慎(みしはせ、あしはせ)はオホーツク文化人であるという説が有力である。」・・・・・・とWikipediaに記されてあります。では、オホーツク人とはどのような民族なのでしょうか。「オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」・・・・・・と、北大研究グループのDNA分析があります。そうです、オホーツク人はサハリンやアムール川下流域、カムチャッカ半島の集団が北海道に渡航し、網走など北海道の東海岸に定着した民族なのです。つづく。11月3日。

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