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今週の親仁ギャグ・2017年11月19日(日)~11月25日(土)

森友問題(土地の8億円値引)で、会計検査院が「根拠不十分」の報告。データは物理的に破壊しており、修復は不可能と云う。そこでWikipediaの「会計検査院の主な任務と権限」を拝借すると、「①国の収入支出の決算に対する会計検査(日本国憲法第90条・会計検査院法第20条第1項柱書)。②会計経理の監督及び適正化(会計検査院法第20条第2項)。③決算の確認。④国の会計事務を処理する職員が故意又は重大な過失等により著しく国に損害を与えたと認める場合の懲戒の処分の要求(会計検査院法第31条)。⑤賠償責任の検定(会計検査院法第32条):検定により賠償責任があるとされた場合、この責任は国会の議決に基かなければ減免されない(会計検査院法第32条第4項)。なお、有責検定(賠償責任の存在を認める内容の検定)に不服がある場合、当然に取消訴訟の対象となると解されているため[7]、この減免規定は「有責検定および各本属長官等が発する具体的な弁償命令が確定した後は、国会の議決に基かなければ減免されない。」。これを読む限りにおいて、今回の会計検査院の報告は、あくまでも大雑把な調査に過ぎず、とてもその権限の最大行使にはほど遠い内容だ。最低でも”懲戒処分と賠償の要求”だろう。その張本人が国税のトップだぞ。正に内閣への”忖度”だ。こうなったら森永製品の非買運動しかないか。11月23日。

●大相撲協会改革への執念なのか、協会との確執と怨念なのか、はたまた次期理事長選挙勝利の捨て身の賭けなのか、朝から昼から晩から深夜まで、今沸騰の話題は「貴乃花の乱(クーデター)」だ。日本の国技は相撲と柔道でしたか。公益財団法人故か、分裂や新たな団体の立ち上げが困難なのは致し方ないところか。たとえば日本のプロレスだが、その始祖は力道山(1924~1963)である。ジャイアント馬場アントニオ猪木も力道山の弟子。日本プロレス(1953年創業)から派生したのが馬場が創業者の全日本プロレス(1972年創業)であり、猪木が創業したのが新日本プロレス(1972年創業)である。これくらいは昭和30年代生まれなら誰でも知っていよう。世界のボクシングは、WBAWBCWBOIBFの主要4団体である。方針が合わずに気に入らなければ独立の組織を樹立すればよいのだが、相撲はそうもいかないのか。世論と、それこそ支持団体や強力な後援者(貴乃花流にはサポーター)が整えば、新日本大相撲なんて法人だって、”あり”だろうが。相撲などのスポーツにとどまらず、全ての協会や連盟などには同様の悪しき習慣事の存在が大小ある。門外漢が吠えることでないのは百も承知だが、貴乃花の肩を持ちたい気持ちが日々増すようにある。11月22日。

●「伊豆の踊子」が発表されたのは大正15(1926年)年1月(昭和元年は1926年12月26日~)ですが、この作品のもととなった「伊豆の踊子」の実際の旅は大正7年10月30日から11月6日までです。じつに8年の歳月が流れての小説化です。何故にこのような長い歳月なのかと云うと、Wikipediaにありました。以下どうぞ。「これは前年の1921年(大正10年)に、伊藤初代(本郷区本郷元町のカフェ・エランの元女給)との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった。この原稿用紙107枚の『湯ヶ島での思ひ出』が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『少年』(1948年-1949年)へ発展していった。ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で眩暈を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が銭湯から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に湯ヶ野温泉で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している。」。伊藤初代との婚約破談については、つい最近、川端が彼女に復縁を迫った手紙が見つかったとマスコミが騒いだ事件です。「伊豆の踊子」には、「仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことことと笑った。子供なんだ。私達をみつけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。」と、確かに書かれています。つづく。11月19日。

●「道がつづら折りになって、いよいよ天 城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい速さ でふもとから私を追って来た。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり紺がすりの着物にはかまをはき、学生カ バンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に 出てから四日目のことだった。修善寺温 泉に一夜泊まり、湯ケ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って 来たのだった。重なり合った山々や原生 林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私 は一つの期待に胸をときめかして道を急 いでいるのだった。」。むろん「伊豆の踊子」の初めの文章です。今回は、「伊豆の踊子」(大正7年=1918年)の踏襲に、吉田松陰が下田停泊のペリー艦隊への乗船を試みた弁天島(1854年)、(熱海温泉宿泊)、豊臣秀吉後北条を兵糧攻めした小田原攻め(小田原城100日籠城・1590年)、源頼朝が鋳造を懇願していた鎌倉の大仏(1250年頃鋳造・頼朝は1199年没)、源氏の氏神である鶴岡八幡宮とその参道の段葛源頼朝の墓、そして横須賀の戦艦・三笠を観光し、最後は銀座の、2泊3日のいつもの旅でした。つづく。11月19日。

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