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今週の親仁ギャグ・2017年5月21日(日)~5月27日(土)

どう考えても政治家や官僚の生命線は言葉での説明責任でしょうが。官僚主導であれ政治主導であれかわらぬことでしょう。政治主導だからこそ、より丁寧で説得力のある説明が必要というものです。隠蔽はもはや茶飯事・・・・・・で、それを超えての「黒を白」の段階という。秦の始皇帝の息子が側近に鹿を見せて馬と言わせた(鹿と馬が逆だったか)と云うのが「馬鹿」の語源であります。司馬遷の「史記」の譚です。それだけ専制の強圧政治であったのですが、安倍内閣も似たり寄ったりということでしょう。「出会い系バー」・・・いいですね・・・わたしも仕事が終わったら歌舞伎町へまっしぐら直行してみたいですね。人間なんて食うか寝るか・・・それに「出会い系バー」でしょうが・・・呵呵。親しみを持てる事務次官だったんでしょうね。要はですね、安倍首相に菅(官邸)さんよ、国民を舐めるなということですよ。政治家である以上、政策決定の経緯をきちんと説明しなさい。子供もみんな見てますぞ。日本で一番偉い人が堂々と嘘をつき、その嘘も理路整然としたものではありません。子供に限らず、皆、あなた方の生き様を見習いますぞ。そういう国に国民になってもいいのですか・・・・・・ということです。日本人の潔さを示しなさい。隣国をどうのこうの言う資格はなくなりましたぞ。悲しくなります。そうです、「名こそ惜しけれ」です。つづく。5月26日。

●「汚職」で司馬さんは、「明治六年十一月、にわかに参議の職をやめ、単身、故郷に帰ってしまう。そのときの詩に、『脱出ス、人間虎狼ノ群』というはげしい句があり、福沢のいう人面獣心とよく照応しているのである。」・・・・・・とし、西郷さんの「西南の役」の果たした歴史的役割を、「しかし、江藤や西郷の霊も、浮かばなかったとはいえない。この乱による衝撃がどうやら官員たちを粛然としたらしく、その後明治がおわるまで、ほとんど汚職事件というものはなかった。死者たちの骨は、その面での礎石になったのである。」と結んでいる。余談ながら、池波正太郎は「男の系譜・西郷隆盛」で西郷さんを「政治家でなく、詩人であり教育者」と論じている。「汚職」にもどって、「原則論ふうにいえば、国民国家とは、国民が自己と国家を同一視し、しかも国民はたがいに等質であるとする国家である。公職者の汚職をみれば、国民自身が、わが身にはねかえって、自己を嗤い、自分を卑しめざるをえない。そのようなつらさを、明治のひとびとは味わわずにすんだ。言いかえれば、明治国家はそれによって成功したといっていい。」・・・・・・とまで綴る。ちなみに「嗤う」は「あざわらう」の意味。前川前事務次官の会見内容を「嗤笑」している政治家や官僚がいるとすれば、いよいよ国家衰退の途となろう。政治家、官僚に日本を正気の軌道に戻せる「乱」を起こす武士精神があるかどうか・・・・・・ということです。つづく。5月26日。

●私は右がかりの読売新聞を購読しておりません。ちなみに毎日と日経(日経も右か)と宮日です。官邸が絡んでいると想像される「前川前事務次官醜聞」記事はどんなものか。見出しは「辞任の前川・前文科次官、出会い系バーに出入り」(2017年05月22日7時25分)「文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ。関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。女性らは、『割り切り』と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる。」・・・・・・ですね。首相官邸を敵に回すと怖いということでしょうが、前次官に武士の精神を感じませんか。きのうの前川会見・・・「そういう国であると思いたくないですね」。つづく。5月26日。

安倍ちゃん・・・・・・マジでヤバい窮地になりますね。繰り返しますが、司馬遼太郎の「この国のかたち(二)」の「38汚職」(文春文庫pp159~170)に、「政治家・官吏、あるいは教育者たちの汚職ほど社会に元気をうしなわせるものはないのである。」と書く。汚職」が国益を大いに損し、繰り返されようものなら「国民の士気」(道徳的緊張)を殺ぐ・・・・・・とも。さあ、自民党のIさんやKさんがどう動くか。自民内部のアンチ安倍ちゃん軍が国民の嘆きに応えないとな。いざ出陣じゃ。つづく。5月25日。

●何もかもアメリカに追従しなけらばならない・・・・・・と云うことはないでしょう。アメリカが日本の獣医師のレベルが低いからと言って、同レベルに達するような教育システムを構築しなさい・・・・・・と言ってきても・・・・・・「はい、そうですね。そうします。」とペコペコするのはどうでしょうか。アメリカは何にしろ自分たちの価値観を他国民や他民族に押し付けようとします。日本の獣医学も牛から馬、羊に山羊、鶏に小鳥、犬に猫、ハムスターに魚、それに人獣共通感染症・・・・・・なにからなにまでの講義を受講して単位を取得しなければ獣医師国家試験の受験資格が得られません。20~30年前なら兎も角、個々の分野が進歩した今、これだけ多岐にわたる動物種の病気や病態、治療法などを網羅して学び、卒業後、それらの知識を活用できる場があったとしても、果たしてそれが社会的ニーズ(レベル)に即したものであるのか・・・甚だ疑問です。それよりも……例えばですよ・・・獣医学生の3年次までは基礎を学び、4年次からは各自の興味あるコース(大動物臨床・小動物臨床・公衆衛生など)に分かれ、実習を主の単位とし、獣医師の免許もコース専用のものとする。すなわち小動物の獣医師は大動物や公衆衛生の職場には鞍替えできないという風であります。これは当然ながら私見ですが、自論が世論のひとつであることは正論です・・・悪しからずつづく。5月24日。

●獣医師会に限らず「会」と付くものが庶民のための集合体であった例(ためし)はそう多くありません。宮崎大学医学部は10年くらい前から地域枠を設けています。歯科医師会は学生定員を削減することなく、その結果「コンビニ然の乱立」という現実があります。さて、他はどうであれ、日本獣医師会は、日進月歩で高度化し細分化する獣医学全般に関して、また今後の将来像の有り様について、何らかの提言をしたり、方策を打ち出してきたのか・・・・・・と云うと、残念ながらその答えは「ノー」であります。安倍ちゃんと加計孝太郎氏の肩を持つ訳じゃありませんが・・・・・・獣医師会と獣医大学教官、それに農水族国会議員さんたちの怠慢は否めないことでしょうつづく。5月23日。

●そこで「加計学園」の獣医学部問題。千葉科学大学のS教授(千葉科学大学副学長・動物危機管理学科教授)は東京大学獣医学科を卒業し、医科研などで活躍された高名な方です。S教授のホームページに今回の獣医学部創設への思いの丈が知れます。ウイルスなど基礎獣医学の「特区」ならぬ「特化」です。獣医学の3本柱である臨床と基礎、それに公衆衛生・・・・・・その全ての分野を網羅することが果たして時代のニーズに応えているのか。「卒論」は必要か・・・そもそも公衆衛生と基礎獣医学、産業動物臨床、それに小動物臨床の全てのコースを学習・習得する必要性がどこまで求められて良いものか・・・・・・そこから議論し、獣医師教育に横たわる従来の問題点を指摘するかたちで「特区」をアピールすれば納得できないこともないのだが・・・・・・この種の議論を避けるのが日本の悪い習癖であります。真正面からの説明をすれば良かったのではないでしょうかつづく。5月23日。

一方で、そもそも日本の獣医師は数からも質からも充足しているのだろうか宮崎県は鳥インフルエンザや口蹄疫を主としたの防疫対策の充実の為、20名の獣医師増員を計画しているとのことだが、採用に難渋している・・・・・・のが現実である。小動物関係でも新卒の獣医師の多くが東京や関西などの大都市に集中して勤務医となる。県職の獣医師がそれほど必要かの議論は免れないが、総じて明らかに獣医師の数が不足している・・・・・・の感が強い。質に関してだが・・・・・・最近になって鹿児島大学と山口大学では夜間救急診療を実施するようになった。なぜ?・・・察するにアメリカなど世界の獣医教育水準を満たすには救急診療をクリアせねばならない・・・ということか。ところがどっこい、アメリカと日本の獣医学教育はそもそも考え方の基本が異なるんであります。日本の獣医学教育はアメリカや日本の医学部と違って「卒論」の単位を取得(必須科目)せねばなりません。アメリカや医学部は5、6年生になれば「ポリクリ」(Poliklinik・1科が2~3週間)で病院実習(経験)を積まされます。なぜ「卒論」にこだわっているのか・・・・・・良くも悪くも日本の獣医学研究の担い手は「学生」です。アメリカは主に企業からのグラントでポスドクやテクニシャンを雇用して研究を遂行します。決して学生に頼る構図ではないのです。「卒論」に費やす時間と労力が多大な分、臨床スキルや知識の習得がおろそかになるのですつづく。5月23日。

●ふたつの「学園問題」は共通点が多く、きな臭い果てしなく黒に近い帝国主義的汚職の見本であろう。司馬さんの「この国のかたち(二)」の「38汚職」(文春文庫pp159~170)を読んでみれば「汚職」が国益を大いに損し、繰り返されようものなら「国民の士気」(道徳的緊張)を殺ぐものであることに合点がゆく。冒頭に、「明治国家は、十分に成功した国家といえる。その因の一つとして、汚職がほとんどなかったことをあげていい。政治家・官吏、あるいは教育者たちの汚職ほど社会に元気をうしなわせるものはないのである。」と書いている。西郷さんも、征韓論に敗れたことによってのみ薩摩に帰山したのではなく、福沢諭吉が書き残したように、国家の品とは「一国人民の道徳品行は国を立る所以の大本なり」「一身の品行相集て一国の品行と為」・・・・・・であって、西郷さんは新政府の政府要人や官吏連中の所業が余程目に余ってのことだと断言しているのである。その最たるものは明治初年の「二大汚職事件」と云う。ふたりとも安倍ちゃんと同郷の長州人である井上馨山県有朋である。つづく。5月22日。

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