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今週の親仁ギャグ・2017年1月29日(日)~2月4日(土)

●日本の食物受給率は39%ですが、たとえば大豆のそれはわずか6%です。実に94%を輸入しているのですから、それもアメリカ合衆国が65.4%と群を抜いています。2位がブラジルの20.9%、カナダが12.2%です。データは2014年もので、総輸入は283万トンです。小麦や濃厚飼料なども同じでしょう。一閑張りの望遠鏡ではありませんが、日本人の特徴は、模倣上手で真似た多くのものを発明国以上の品質に完成させることです。自動車しかりで、30年前のフォードやGMなどアメ車のエンジンは日本製と揶揄されるほどでした。ボーイングやエアバスの旅客機ももはや東レの炭素繊維がなくちゃ飛べません。次はセルロースナノが控えています。魚の養殖も「最適環境水」が世界の食魚供給を大きく革命するやも夢ではありません。「鎖国」がなければ、しなかったのなら、日清戦争も日露戦争も、そしてあの太平洋戦争も回避できたやもしれません排他的保護貿易主義の「トランプ鎖国」は恐ろしい結果を導くかもしれません。ペリー提督の浦賀来襲は1853年(グレゴリオ暦=新暦の7月8日午後5時)、嘉永6年のことです。私事ですが、小生の祖父のまたその祖父(祖父母の祖父=高祖父)が生まれたのが嘉永6年9月2日です。4代前のことですがそんなに遠い昔のはなしではないということです。その間、アメリカの自動車も飛行機も日本の技術と製品なくしては「走らず飛ばず」なのです。そこまで明治以降の日本は驚異的な発展を遂げているということです。立春の2月4日。

●「『鎖国をしていると、しらずしらずのうちに、こうまで子供にかえってしまうものなのか』と、長崎での人間風景を書いているのは、嘉永六年(一八五三)七月、幕府に対して開港をせまるべく長崎港に入ったロシア帝国の使節団の団員ゴンチャロフの『日本航海記』における一節である。ゴンチャロフは日本人の役人の言動の子供っぽさをとらえたのだが、役人たちの頭にかぶさっている鎖国の禁令がそもそも子供っぽい発想からうまれたというべきであろう。司馬遼太郎の「胡蝶の夢・第一巻」(新潮文庫p394)。
 大国の大統領じゃなかったら、単なるチンピラな駄々っ子じゃないか完全保護貿易主義は江戸の徳川幕府が行った「鎖国」に等しい。徳川の鎖国令は1933年の日本人の海外貿易禁止に始まった。1639年にはポルトガル船来航禁止とし、ポルトガルによるキリスト教布教を完全に絶とうとした。出島は1634年に築かれた人工島である。鎖国時代の外国貿易相手国は出島のオランダと唐人屋敷の中国に限っていたのは承知のとおり。では、開国はいつなのか。1853年のペリー(1794~1858)の浦賀来襲か、翌年1854年の日米和親条約締結か。アメリカ合衆国建国が1776年であり、今からわずか251年前。日本の鎖国は221年間も続いたから、ほぼアメリカ建国以来の歴史に匹敵する。恐ろしいことだ・・・・・・なんて「胡蝶の夢」を読みながら思いましたぞな。つづく。節分の2月3日。

司馬遼太郎の「胡蝶の夢・第二巻」(新潮文庫)の抜粋です(pp59~61)。これは安政5年、井伊直弼(1815~1860)の「安政の大獄」(安政6年1858~59・吉田松陰(1830~1859)の斬首は1959年11月21日・伝馬町牢屋敷)前、オランダ人医師・ポンぺ(1829~1908)と松本良順(1832~1907、父は順天堂大学の始祖・佐藤泰然1804~1872で松本良甫の娘婿養子)との会話。勝麟太郎(1823~1899)乗船の咸臨丸が航海訓練で下関から薩摩へ向う途中の豊予海峡で、右舷に豊後の山々を目にしたときのこと。後述しますが、日本人の応用力や拡大志向、物事へのこだわりを感じさせられます。同時に、グローバルな公益性の重要性がうかがえます。クレイジー・トランプさんどうですか。アップル社、フェイスブックのCEOはアングロサクソンの純血ではありません。シリア人(アップル創始者のジョブ氏の実父はシリアの移民)や中国など東洋人(フェイスブックのザッカ―バーグ氏の先祖はドイツ、オーストリア、ポーランドの移民で、妻の両親は中国とベトナムからの亡命者)の血が入っています。すかさずトランプ大統領の7か国入国禁止令にNOを突きつけました。

あの赤いのは、花ですか
花ではなく、新芽です。薄赤いのはクスノキという樹で、真っ赤なのは、おそらくアカメガシという種類の樹だろうと思います
 良順がいうと、ポンぺは、この時代の知的なオランダ人のすべてに共通していたことろの博物学的な好奇心をもって、ながい時間、それをながめていた。やがて島そのものが去ると、好奇心が望遠鏡に移った。
こういう望遠鏡は、ヨーロッパにない
 ポンぺがつぶやいたように、かれにとってそれは珍奇なものだった。まず、筒の材料が金属とはまったく違った物質で、おどろくほど軽い。それに、塗られている塗料がヨーロッパのそれのように無愛想なものでなく、美術品そのものといっていいほどに贅沢な蒔絵がほどこされている。
なぜ軽いのか
紙だから
 と、良順が答えた。ポンぺは、もう一度おどろかざるをえなかった。良順は、一閑張りを説明した。紙を張りあわせ、その上に何度も漆を塗りかさねることによって、紙がもつ湿気や打撃からの弱さをとりのぞき、あわせて紙がもつ軽さだけを抽出したものである。
日本人の発明か
遠めがねそのものは、おそらく十六世紀のポルトガルやイスパニアとの貿易の結果、渡来したものだと思う。一閑張りも、十七世紀に中国の明王朝がほろんだとき、日本に亡命してきた明人が伝えたものだときいている。ただそれを遠めがねに利用したのは、まちがいなく日本人である
 と、良順はいった。
世界的な産物だ
 ポンぺは、めずらしく笑い声をててた。
しかし、高価なものだろう
そうではない
 良順はいった。この種の遠めがねは内海航路の和船の船頭が使っていてさほどに高価なものではないから、もし先生がお気に召したのなら差しあげる、といった。
それでは、君が不自由だろう
 といって、ポンぺは自分が持っていたオランダ製の望遠鏡を良順にあたえた。

つづく。またしても寝ぼけのヘマで折角の掲載文を削除してしまった。機会あればまた書いてみよう。2月2日。

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