コンテンツへスキップ

司馬遼太郎未発表原稿「『竜馬がゆく』がうまれるまで」(昭和38年1月号「産経新聞社内報」)

特集司馬遼太郎 没後20年・秘話『竜馬』を生んだ運命の三人」を寄稿している司馬さんの義弟・上村洋行(うえむらようこう)氏の文章によれば・・・
三人とは産経新聞社長の水野成夫(しげお)氏・産経新聞社後輩で高知県出身の渡辺司郎氏・そして妻で、上村洋行氏の姉である福田みどり氏。
渡辺氏から「竜馬」を書いてくれと言われたものの、司馬さんには「(私は、)なんの感興もおこらなかった」のだが、「その日から、おかしなものでどんな本を読んでも竜馬が出てくるのです。別の目的で資料を調べているのですが、毎日出てくる。そこでついそのくだりを読んでしまう。そんなことが十日ほど続きまして妙な感じでした」(「竜馬雑話」『司馬遼太郎が考えたこと6』所収)。
妻の福田みどり氏が「竜馬」を「歴史上の人物のなかでいちばん魅力がある」と後押しし「竜馬がゆく」を書く決心がついた。彼女は最初の読者でもあり、よき相談相手でもあった。
水野社長の提示した「(稿料の)半分、君がドブに捨てたければ捨てろ」の破格の稿料は、そのほとんどを資料代に費やした。「司馬邸には、トラック一台分の古本が送られてくる」・「司馬遼太郎がテーマに選ぶと神田神保町から関連の書籍がなくなる」との伝説があるが、東京の古本屋から二トントラックいっぱいの資料が実際に運ばれていた。玄関先でそれを選別していたが、それらのほとんどを買っていたという。今回の文藝春秋ではないが、その金額が五千万円とも・・・聞いたか読んだことがある。
資料のなかでも司馬さんが特に注目したのが竜馬の手紙であった。口語をそのまま文章にしており、かみくだいての自分の人情、感情をうまく表現した柔軟な文章であった。
挿絵は大家の岩田専太郎。
司馬さんがつくった竜馬年表やノートは見開き程度の簡単なものであったが、頭の中にはどの資料のどこに何が書いてあるのかがすべて頭の中に入っていたようで、だれかれと作品の話になると「ちょっと待っててな」「この話は此処に書いてある」と実物を取り出して来て見せたそうだ。これは別の読み物だったが、ある人とお茶をしているとき、ある人がトイレに行っている間に、結構な分厚さの資料を読み終えていたという。
「竜馬がゆく」の第一回原稿はまっさきに妻の福田みどり氏に渡された。その時の彼女の感想は「後年の司馬さんには考えられないが、文字を桝目に一字、一字、丁寧に埋めた礼儀正しい文章だった」「もともと私は、未来という日をあまり考えたことがなかったが、『竜馬がゆく』のこの冒頭の文章を読みながら、司馬さんと私の生活の向こうにも、陽光が輝く未来が待っているように思えて胸が高鳴った」(『司馬さんは夢の中3』)。
『竜馬がゆく』の同時期に同時並行で司馬遼太郎の代表作である『新撰組血風録』『燃えよ剣』『国盗り物語』『関ヶ原』『義経』などの長編を書いた。短編も十四本同時並行で執筆は驚異的を超えて天才そのもの。
上村洋行氏は母の死(昭和40年)後、姉の司馬邸に居候するが、そので司馬さんが難しい天下国家や自身の作品について語ることはなかった。「あの店の天丼は美味かった」とか「こないだ見た映画が面白かった」なんぞの話がもっぱら。
新聞記者になった上村氏だが、大きな事件などが起ると「苦しい時の司馬頼み」で義兄にコメントを求めた。「話している通りに原稿を書いただけで、的確な社会批評の談話になっていて、これほどありがたい」ことはなかった。1月14日。

●司馬遼太郎とは・・・1923年(大正12年)8月7日に生れ、1996年(平成8年)2月12日に逝去。大阪市生まれで、本名は福田定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。Wikipedia年譜の一部をまとめると、1948年(昭和23年) 5月、産業経済新聞社入社、京都支局に配属となる。1959年(昭和34年)に松見みどりと2度目の結婚。1960年(昭和35年):『梟の城』にて第42回直木賞受賞。1961年(昭和36年) に産経新聞社退社し、執筆活動に専念する。1964年(昭和39年):現在、司馬遼太郎記念館のある大阪府布施市下小阪(現:東大阪市下小阪)に転居。1月13日。

●初期の作品をまとめると、『梟の城』(1959年、講談社) (直木賞受賞)。『上方武士道』(1960年、中央公論社) 。 『風の武士』(1961年、講談社)。『戦雲の夢』(1961年、講談社) 。『風神の門』(1962年、新潮社)。『竜馬がゆく』(1963-1966年、文藝春秋新社)。『燃えよ剣』(1964年、文藝春秋新社)。『尻啖え孫市』(1964年、講談社) 。『功名が辻』(1965年、文藝春秋新社)。『城をとる話』(1965年、光文社)。『国盗り物語』(1965-1966年、新潮社) 。『俄 浪華遊侠伝』(1966年、講談社) 。『関ヶ原』(1966年、新潮社) 。『北斗の人』(1966年、講談社)。1月13日。

●今回、文藝春秋に掲載された司馬遼太郎の未発表原稿の書かれた日付が昭和38年1月(号)ですから、1963年の事です。そうすると司馬さんは産経新聞(文化部所属)を退社して2年目ですが、実際の「竜馬がゆく」は前年の1962年6月21日から連載が始ったいます()。この「『竜馬がゆく』がうまれるまで」を概略まとめると、産経新聞の水野成夫氏本人から直に連載小説連載の「命令」が下った。それも「好きなだけ、三年間書け」(お前も十数年、この新聞を得るためにはたらいた。この新聞の読者の顔つきまで知っているはずだ。うんと読ませる小説を書け)。「稿料は、これだけだ」と破格の「ひどく高額」で、従来の四大新聞の稿料の常識を超えるものであった。「半分でいい」と執拗に言ったが、水野社長は「稿料は、こっち側の思ったとおり送る。そのうち半分、君がドブに捨てたければ捨てろ」と応酬し、内容は「大菩薩峠」のような大河小説を書くつもりでいた。その翌日訪れた社会部長の渡辺某君に対して、司馬さんが構想しているある物語の筋を話すと、渡辺部長は「おもしろおまンな。せやけど、わしあんたの一読者として、いっぺん、書いてもらいたいものがおまンねん」・・・「坂本竜馬だす」。司馬さんはこれに「私は、なんの感興もおこらなかった。維新の勤王の志士か、と思った程度であった。」。その夜、奥さんに話すと「あたし坂本竜馬が大好きや。どんな人かよう知らんけど、歴史上の人物のなかでいちばん魅力がある。女の人、みな、そうとちがうやろか。」・・・そしてそれまでの構想は一擲される。そして「すぐ、神田の高山本店にいま現存する竜馬資料をぜんぶ急送するようにと命じ」た。「そのうち、神田の本屋から資料が到着するにつれて私の胸中の竜馬像はいよいよ肥ってゆき、胸がかなしくなるほど、竜馬が好きになってきた。書こうと思った。この気持で書けば、きっとあたるだろうと信じた。」。・・・「一人の剣客をかくのではない。ひとりの青年をかくのだ、と決意した。それも、私どもの周囲にでもいる平凡な青年が、次第に成長して、しかもその成長を読者とともに楽しみつつついに日本史を二度にわたってたった一人で動かした愛すべき男をかくのだと決心した。この時代小説は、家庭小説なのである。婦人にも読んでもらいたいと思った。竜馬のような一見凡庸な子供は、どの家庭にもいる。読者がこれは自分の弟だ、とか、自分の子供だ、という共感で読んでくれる時代小説をかきたい。」・・・・・・「おかげで、ひどくあったている。私は、読者の雑踏のなかで小説をかいている実感を、ひしひし感じている。この小説が受けているのは、私の筆のせいではなく、はっきりと竜馬自身の魅力によるものだと思う」・・・「(竜馬が死ぬ)そのときがこの小説の完結だが、その年がちょうど、竜馬没後百年にあたる。没後百年にして、竜馬がふたたびいきいきとよみがえってこの世間を闊歩してくれるよう、私は一生懸命になりたい」。・・・と結んである。

初出の「竜馬がゆく」は産経新聞夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載。それを追って1963年から 1966年にかけ文藝春秋(全5巻)で、1974年に文春文庫創刊に伴い全8巻で刊行。1月13日。

先頭へ