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今週の親仁ギャグ・2014年1月5日(日)~1月11日(土)

「殿」の顔はどこかしら皇族のにおいがする。それもそうだろう、祖父は彼の近衛文麿(1891-1945)だ。歳を取るに従ってそっくりさんだ。文麿元首相は、 五摂家の近衞家の第30代目当主で後陽成天皇の12世孫。日中全面戦争期の首相であったためA級戦犯に指定された。東京裁判にかけられることなく服毒自殺した。血筋は御立派すぎる「殿」。安倍ちゃんの独走専断政治を快く思わない師匠の小泉純一郎氏と反原発で意気投合、一致したか。75歳といえば確かに高齢だが、癌頻発年齢領域は突破したか・・・脱政界が長い分、意外と心身共に健康健全の可能性がある。何十年もどっぷり永田町に浸り汚れた政治屋の野郎よりもよっぽどましかもなそれにしても純一郎氏は息子の進次郎氏がさぞ可愛いのであろう。自民の固陋な古老に埋没されないがためにか、息子の帝王学教育を自ら教示してしているように見るのは・・・親仁の勘繰り過ぎか。さもあれ、親仁としては殿の「いざ出陣!」に賛成じゃ。1月11日。

「ムシャ(武者)がよか」というだけあっての肥後人は加藤清正を好んだ。その清正の後に入府したのが細川三代目の忠利で、それは1632年のことである。細川氏の肥後入部前の領地は豊後小倉の三十九万九千石であった。肥後五十四万石に入府の際、初代忠利は小倉からの道中、行列の先頭に清正公の霊牌をかかげて熊本に入ったといわれる。また忠利ははじめて熊本城に登ったとき、石塁の上にすわり、清正公廟を遥拝して-あなたのお城を預らせて頂きます。と言ったといわれている。忠利のこの芸のこまかさは肥後の人心を得るためだったが、その細心さこそ細川氏のの政治を生んだといえる。」(司馬遼太郎著「この国のかたち二・文春文庫・p64)。それに細川家といえば戦国きっての歌学や茶道に開けた御家であるからだろう、当世の護熙氏も陶芸をはじめ、いまや芸術家であり、オークションでもそこそこの有名作家よりも高額で取り扱われる。血縁、血筋とは畏怖なことものよの~つづく家康は清正の死後、その子の代になると加藤家をつぶした。清正の死因のひとつに家康による毒殺説がある。秀吉の信奉者であった清正が秀頼を担いで豊臣家を再興することを危惧懸念していたともいわれる。秀頼が自害した大坂夏の陣(1615)は清正死(1611)の4年後のこと。1月11日。

「殿の御乱心」か、はたまた平成の「御出陣」か細川護熙氏は戦国大名、細川幽斎(1534-1610)こと藤孝の末裔である。幽斎を知らねばその子、細川忠興(三斎、1563-1645)は知ろう。忠興を知らねばその妻、細川ガラシャ(1563-1600)は知ろう。そうガラシャとは明智光秀(1528?-1582)の娘である。護熙氏は首相の前に熊本県知事を2期務めた。殿の所以は昔の国持大名がそのまま現代の首領(知事)になったからであろう。そもそも戦国の豊臣秀吉の時代、現在の熊本、肥後は秀吉の織田信長時代の同僚である佐々成政(さつさなりまさ、?~1588)が治めた。成政は秀吉に封じられた形であったが、もとよりその風柄からして難治の国とされた肥後の国人に疎まれ、失政をして最後は秀吉に切腹を命じられた。関ヶ原後の家康の時代になると彼の加藤清正(1562-1611)が拝領して治めた。清正の治世はわずか20余年であったが、今も「清正公」(せいしょうこう)として県民に親しまれている。親仁も熊本に旅した際、タクシーの運転手が熊本の8割の県民は今でも清正のことを「せいしょこう」と尊称している・・・と誇らし気に語っていた秀吉と成政は犬猿の仲(?)だったらしいから、成政を肥後に差向けたのはその混乱発生を見越したのかもしれないつづく。1月11日。

会社(企業)が欲している人材とは・・・その重要なひとつが・・・「想像力」である。司馬遼太郎は言う。(独逸参謀本部の少佐で陸軍大学校の傭教師)であるメッケルに関するの話。)ある年の秋、メッケルは陸軍大学校の学生をつれて北関東へ参謀旅行をし、前面の山を指さし、『あの山の背後に川はあるか』ときいた。たれも答えられなかった。メッケルは怒号し、想像力は参謀の財産である、と言い、『あの地形と山のかたちを見れば川はあるはずだ。それも、こういう姿をしている』と言った。現地についてみるとはたして川はあり、そのような姿をしていた。ついでながらそのメッケルは、当時、『人を教えること神のごとし』といわれるほど人物眼のあった男だが、この当時、『日本では児玉である。かれには独創と想像力がある』と、帰独後もいった。・・・・・」(司馬遼太郎著「殉死」p69)もちろん児玉とは日露戦争の参謀総長の児玉源太郎である。横浜地検川崎支部には接見室がなかったというが、取調室に石鹸を置いて「朝昼晩、顔を洗ったらどうじゃろか」・・・ワッハッハの呵呵だ。日本人の質は確実に退化しているのであろうか。安穏とした子供時代の生活様式で本能が廃れているとすれば、そうならないような教育が必要だ。「想像力」をもって任務(仕事)に当るかどうかで人間の価値はアップする。そして想定訓練をすればそれなりの業務はこなせるはずだ。筆記試験の点数や数分間の面接の印象だけで採用するから「すかデカ」が蔓延る。ここだけの話だが・・・警察の検挙率の実際なんてのは年年下がっていて、その(現状維持の)数字は(下げないように)誤魔化しの「でっち上げ」らしいよ。警察さん、しっかりして下さいよ親仁もこの道30年、それでも毎日まいにち、想像力や先見力、そして独創力を磨くべく診療姿勢でいますぞ!!! 1月8日。

●警察の怠慢。まったく何をやっているのだ。以前書いた「親仁ギャク」を再掲しよう。●吉村昭著の「破獄」。主人公の佐久間清太郎(モデルは白鳥由栄=しらとりよしえ元受刑者)は昭和11年に青森刑務所、昭和17年に秋田刑務所、昭和19年に網走刑務所、昭和22年に札幌刑務所を脱獄。警備が厳重で設備も頑丈な網走刑務所を逃走したのは彼が最初。4度目の札幌刑務所も彼のために独房を改良したにもかかわらずである。1回目の青森は「合鍵づくりについては、驚くべき方法がとられていた。かれは、入浴時に手桶にはめられていた金属製のたがをひそかにはずして房内に持ち帰り、かくした。ついで、入浴後、房に入る時に湯でふやけた掌を錠の鍵穴に強く押しつけ、その型をとり、さらに入浴中、臀部をあらうふりをよそおってたがを床のコンクリート面で摩擦し、合鍵をつくった。」(p28)。2回目の秋田は「守宮(やもり)を考えてくださればいいですよ」(p91)「頭を上にして這いあがってゆくのだろう、と想像していたが、ちがっていた。かれは少し体をかたむけて、両足の裏を一方の壁に押しあて両掌を他方の壁に密着させた。そして、足裏と掌を交互にずりあげてゆくと、体が上方にあがりはじめた。・・・やがて体がかたむいたまま天井に達し、力をこめて手足をふんばると、片手を電球にのばしてゆるめたり、しめたりした」(そうして天井の明り窓の木枠を外して独房を脱出した)(p395)。3回目の網走は、特製の手錠に「かたくしめつけられたナットが、どのような方法ではずされたのか、刑事は入念にしらべた。ナットは深くうちこまれていたが、床におかれたナットをしらべてみると、意外にも腐蝕していた。その腐蝕の度合は、長い歳月を経なければそのような状態にならぬはずであった。刑事は、ナットを見つめ、指先でふれ、表面に湧いている錆をなめた。独房の中がさぐられ、刑事は、湯呑み茶碗に眼をとめた。底にわずかであったが、黄色い液がのこっていた。それを嗅ぎ、指にふれてなめた刑事は、『味噌汁だ』と、つぶやくように言った。」(p176)。4回目は「脱獄の準備をはじめたのは脱獄の数日前からで、便器のたがをはずし、釘できざみをつけて鋸をつくった。それを使用し、二日間で床板をひき切った。三月三十一日午後九時すぎ、板を引きあげてそのすき間から床下にもぐり、食器で土を掘りすすんで獄舎の外に脱出した。」(pp329-330)。さらに「高い塀をこえる方法をたずねると、佐久間は塀ぞいにななめに駆けあがれる、と答えた。また床板などの釘をぬきとるのも、指を釘の頭に強く押しつけて回転することをくりかえせば容易だ、と言った。」(p396)。以上は、親仁がこの「破獄」を読んで不謹慎にもあまりに感激したものだ。事実、無期刑囚人の佐久間清太郎は一部の庶民や囚人から英雄視された。この本のなかで吉村昭は、(戦前戦中ということもあって)囚人が道路工事や魚市場(鯡)での作業、造船業務など多岐にわたって従事したことを書き連ねている。戦争という国難に際し、彼らの愛国心は少しも劣るものでないことを物語っている。10月4日。●「破獄」にこだわるが、白鳥由栄受刑者は26年間の服役中4回脱獄し、累計逃亡年数はなんと3年。最後の府中刑務所では模範囚となり、1961年仮釈放となって1979年に心筋梗塞で他界。享年72歳であった。模範囚になりえたのは「鈴江」府中刑務所所長の計らいに依るもので、出所後は山谷で日雇い労働し、骨身を惜しまず働いたので特定の建設会社から執拗に入社を請われたが、自由の身を望んで固辞した。9月29日、時代の闇を暴いたノンフィクション作家で”毎日、最低でも3人の取材相手と会う”という「取材の鬼」こと、山崎豊子氏が逝った。今週も週刊新潮で「約束の海」(第7回)が連載されている。死して、尚、筆を絶たず。吉村昭は「記録文学」の巨匠。突撃取材には想像を絶する苦悩を伴うのであろうが、後を追う若い作家がそれを遠巻きに逃避してはならない。先輩や歴史に学ぶところは大きい。時代の腐敗を斬ることも作家の大きな使命のひとつだ。「破獄」は脱獄法などでWikipediaと異なるが、親仁は吉村氏の現場主義を尊重したい。「破獄」は白鳥受刑者に親身で接した「鈴江」氏の取材に依るところが大きいからだ。白鳥受刑者が警察の取り調べで嘘の証言をした可能性もある。親仁が先週から「破獄」にこだわるのは「今も国難」を考えてのことだ。10月6日脱獄(牢破り=「破獄」)の天才に窮した当時の関係者。房に様ざまな工夫を凝らして加えたが結局のところ破獄王には勝てなかった。それが事もあろうに取り調べ室から逃げられたとは「寓」の骨頂で、関係者には「ぐうの音も出ない」ほどの懲らしめが必要だつづく。1月8日。

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