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今週の親仁ギャグ・2013年12月8日(日)~12月14日(土)

●みんなの党を離党した江田憲司衆議院議員が懐かしい言語を発していたのが気になった。「歌を忘れたカナリア」。江田氏の意味するところは、みんなの党結党時の理念(官僚政治打破・天下り廃除・政治主導・・・)を渡辺喜美氏がきれいさっぱり忘れてしまったこと。調べるに聖書に起源するフレーズなのか・・・西条八十(1892-1970)の詩もある。親仁が思い浮かべたのは元死刑囚である永山則夫(1949-1997)の『人民をわすれたカナリアたち』(辺境社(1971年)のち角川文庫)。たしか大学生の時読んだ記憶がある。彼の作品で当時強烈な衝撃を受けたのが『無知の涙』(合同出版(1971年)のち角川文庫)。永山死刑囚は幼少時の不遇(貧困と不幸な家庭環境)による教育の貧弱性をこの「無知の涙」で表現した。では「無知の知」とは何ぞや。便利帳のWikipediaを拝借すると、「ギリシアの哲学者ソクラテスは・・・知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではないことに気がついている、言い換えれば無知であることを知っている点において、知恵者と自認する相手よりわずかに優れていると考えた。また知らないことを知っていると考えるよりも、知らないことは知らないと考えるほうが優れている、とも考えた。なお、論語にも『知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり。』という類似した言及がある。」と、ちゃんと書き込んである(有難哉)。さらに「無知」の言語に言及すると「無知の罪」という単語もある。・・・・・写真で示したように今話題の「軽減税率」について、「知らぬが仏」ではすまされない親仁の「無知の知の涙とその罪」そのもの。つづく。12月13日。

幹事長の茂君をしても「特定秘密保護法」を十分に理解してない・・・というか、自民党切っての論客である筈の彼が「秘密を漏らした公務員は当然処罰の対象だが、それを放送なり報道したマスコミもその対象」と言い切ったから問題は重大である。1時間後に訂正したが、法の曖昧さを露呈したかたちだ。先行きが不安で心配だ。猪瀬君の後継で小泉純一郎元総理出馬か・・・の報道。総理の格下げ出馬であっても東京が生まれ変われば、それは即、日本が回生することに他ならない。お騒がせ芸人政治家のそのまんま氏曰「橋下氏のご意向」・・・との意味深な発言は何ぞや。以前のようにタッグを組み、地方(宮崎県知事)からの発信で政府を刺激するか・・・都知事選にリベンジするか(これだけ腰の座らぬ人間には荷が重かろう)・・・あるいは慎太郎氏もご高齢でその政治生命はそう長くはないから(そうなれば旧太陽の党と袂を分かつのも近い)維新の再編再生の時まで滋養するか・・・野党の再編も意外にすぐそこかも知れないし・・・。軽減税率で拗ねる公明党。1,000兆円の国の債務。一体全体、それこそ各個人が全部でどのくらいの税金を納めれば収支が合うのであろう。どっちみち(何方道)近い将来、アメリカやヨーロッパ(特に北欧)並である年収の60~70%になるのであろうから、悩んでも・・・机上で算盤を弾いているだけの財務官僚を恨んでみても・・・結局のところ終着点は哀しい哉、行きつくところに行きつくってことだろう。12月11日。

局や新聞社によっては15%もの支持率低下。丁寧な説明とか謙虚にとかではすまされない案件だ。30%台まで急降下すれば内閣崩壊を意識し始めるであろう。60年後の公開とか未公開での廃棄とか、国民を愚弄するにも程がある。5年後の公開を目指すべきである。総理や大臣や官僚の孫や曾孫の代になって公開されたって、その時点で何処の誰兵衛が責任を取るというのだ。そんな安気な秘密特定なんて・・・職務の範疇に入るまい。いくら数の原理とは言え、法案の中身には少なくとも2割や3割程度の野党や市民の”良識”を汲み入れる余裕を見せて欲しいのものだ。猪瀬君の冷汗多汗症と呼吸速迫、それに起立時動揺は確信犯だな。給料の1年分返納なんて”小人”の猿知恵。ナンセンスで市民を愚弄。2020年までの7年間もキャピタルペテンの拝顔は御免蒙る。世界の大恥だ。公明党の特定秘密保護法案賛成に臭う「軽減税率」導入。支持母体(団体)の創価学会の財務問題。穿った言い方をすれば、軽減税率で生じた差額が財務という形で特定の宗教法人へ回り上納される。無論、非課税である。宗教法人の収支報告義務と本気での課税の方が先だろう。12月10日。

「自らもっと丁寧に説明すべきであった」・・・内閣支持率が10ポイント下がり、不支持率は10ポイント上がった直後の安倍ちゃんの会見。当然、強行採決突破させた特定秘密保護法案のことだ。2度目の宰相もさすがに国民の支持率には神経を尖らせ敏感である。アベノミクス成就のために前倒しの昇給を実行した経営者も少なくないであろう。日本城の大普請を恃んでの前投資なのに、その意を殺ぐようなファシズム的背信政治。アベノミクスの逆走ありき。猪瀬君の「1年間給与返上」の思慮浅薄な都民、国民を軽侮した発言。その発想の根拠は何たるや。自ら懐疑の渦の蟻地獄へのめり込み、益益泥濘にはまるであろう。2,600万円の年俸と5,000万円の闇金。彼への疑念は深まる一方。江田憲司議員離党で「みんなの党」分裂。遅すぎた結末だが、お坊ちゃん育ちの喜美君を憤怒させながら、離反者の数を増やすための時間稼ぎだったか。そもそも喜美君は総理大臣の”玉”じゃなかったし、今じゃ小党の将領ももはや怪しい立ちいち。みんなの党の空中分解も早かろう。それにしても会見に臨んだ離党議員の影の薄いこと。とても大物政治家の資質を匂わせるような顔容の志士は居ないな。しかし、これも反自民党結集の第一歩。橋下徹の慎太郎賊排除の維新、民主の若手実力派ら・・・が志を高く集合し(烏合の衆のような野合でなく)安倍晋三独断暴挙内閣に対峙してもらおう。12月9日。

●「日露戦争(「坂の上の雲」)後の、特に昭和の日本を総括していないから、今度の特定秘密保護法案の強行採決なんてのが許され罷り通るのだ」と、司馬遼太郎が存生なら絶叫してお叱りだろうに(先生は紳士だからトクトクと説いてくださるだろうが)!!! 今日は太平洋戦争開戦の日つづく。12月8日。

●座右の塵箱が膨らむように1週間の過ぎることの早いことよ。最近の親仁は暇があれば寝るか読書をし、余った時間でブログを更新ってとこだ。(アッ忘れてた・・・ニシタチ放浪もやってまんがな)。時代・歴史小説といえばやはり戦国か維新。けっこう読み散らしていくと「昭和」が知りたくなる。だが、探しても探しても、それこそ司馬遼太郎の「新・太閤記」や「関ヶ原」、「坂の上の雲」の昭和編なんてのは見つからない。最近テレビで晩年の司馬遼太郎が語っていたのがすごく印象に残った。「随分ノモンハンの事を調べました。資料も集めました。人に会いました。会いましたけれどもですね、一行も書いたこと無いんです。ぇ・・・それを書こうと思ってながらですね、未だに書いたこと無くて、ついに書かずに終るのではないかと、そういう感じもします。昭和というものを書く気も起こらず、おそらく書いたらですね、一年をもたずして私は発狂状態になって・・・まあ内臓まで狂って死んじゃうだろうな・・・昭和っていうのは実に精神衛生に悪い、書いておって精神衛生に悪い・・・ぇ、実にそういうものをもってます。もってます。ぇ・・・それをどなたか若い人が・・・解剖、昭和を解剖してくれたらいいんであって、ぇぇぇ・・ゥ、そのきっかけとして喋っているようなもんですねえ。」。司馬遼太郎は平成8年2月12日、腹部大動脈瘤破裂で急逝。戦争の総括は少しも進んでいない若い作家さん、勇気を奮い立たせて司馬遼太郎の遺志を継いで下されたしつづく。12月8日。

●公明党と自民党議員のひとりやふたり、造反する血気の所有者がいてもよさそうに。(公明党の支持母体である創価学会も戦時下の新興宗教弾圧では痛い目に合っているはずなのに・・・)。傲慢横行が過ぎると安倍内閣の命取りになりますぞ。このインターネット時代、例のCIA元職員のエドワード・スノーデン君のような正義感旺盛な官僚がきっと現れるであろう。そうあってもらいたい。司馬遼太郎(1923-1996)は戦車部隊でノモンハン事変に従軍したという。ある時(「坂の上の雲」連載中の昭和40年代はじめ)、神田の古本屋街からノモンハン事変に関する資料をはじめ当時のソ連関係、昭和14年頃の日本関連の書物が一冊も無く消えたという。司馬がトラック3台分買い漁った結果だ。当然、この「ノモンハン事変」(昭和14年)を小説化するためだった。が、司馬遼太郎の「ノモンハン戦記」が世に出ることはなかった。いくつかの出版社や新聞社が執筆開始を懇願すると、司馬は決まって「ノモンハン事変書いたら、俺死んじゃうよ」と幾度も語ったという。ある文芸評論家にも「書こうとしたら心臓の血管が破裂しそうになる」と漏らしたという。ノモンハンにかかわった軍関係者からの取材を繰り返す毎に「昭和の恥部」が顕わになり、知れば知るほど分れば分るほど当時の「統帥権の無限性」(「この国のかたち一」司馬遼太郎著・1993年文春文庫・pp47-59)のからくりが判明し、その極限の”時代のえぐさ”に失望したのかもしれない。「特定秘密保護法案の強行採決」で安倍ちゃんの内閣支持率低下が始まり、それが彼の内閣崩壊の始まりである。
 戦時下、初代会長の牧口常三郎(1871-19944)は特別高等警察による監視が続けられる中で神社神道の批判を続け、1943年7月6日伊勢神宮の神札を祭ることを拒否したために、治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で下田警察署に連行され、同日、後の第2代会長戸田城聖(1900-1958)らも検挙(計21名)。牧口は獄中においても転向を拒否し、1944年11月18日、東京拘置所内の病監で栄養失調と老衰のため獄死つづく。12月8日。

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