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今週の親仁ギャグ・2012年1月1日(日)~1月7日(土)

●「家康の略年譜・PartⅡ」。1579(天正7)年、家康37歳、第3子・秀忠誕生。信長の命により、長男・信康を自害させ、正室・築山御前を殺害。1582年、甲州征伐開始。信長より駿河を与えられる。本能寺の変で信長急死、家康は「伊賀越え」で堺から急遽、三河に帰る。1584年、信長の息子・信雄(のぶかつ)と連合し、羽柴(豊臣)秀吉と「小牧・長久手の戦い」で合戦、約半年後に休戦、講和。1586年、秀吉が太政大臣となり豊臣政権を樹立。家康は、浜松城から駿府城へ。1590年、秀吉の小田原攻めスタート。家康は先鋒隊として出陣。北条氏滅亡。家康、秀吉の命により、関東に国変えで「江戸入府」。1598年、秀吉、死去。1600年、関ヶ原の戦いで東軍勝利。1603年、家康、征夷大将軍となり、江戸幕府開く。諸大名に江戸拡張工事(江戸普請)を命ずる。秀忠の娘・千姫が豊臣秀頼と結婚。つづく。1月7日。

●「長篠の戦い」は1575年の武田軍と織田・徳川連合軍の戦だ。武田軍は戦国最強の騎馬軍団であり、対する信長はこの戦で鉄砲の「三段撃ち」を行った。しかし、現在「三段撃ち」戦法は疑問視されている。というのは、思い装備で、撃っては後方に移るという動作を連続して行うのは、如何に戦国武士と言えども体力的に困難らしい。この戦の本当の、陰の功労者は、本戦から離れ、長篠城の付城である鳶ヶ巣山の砦を奇襲した、徳川四天王の1人・酒井忠次の別働隊であった。四方を囲われた武田勝頼は前進せざるを得ず、兵の半数以上を失って、僅かの従者と共に命からがら甲府へ戻ったのである。この時の兵力は連合軍が3万8千、武田軍が1万7千であった。1573年に没した信玄(1521~1573、享年53歳)亡きあとの武田軍は、既にこの時衰退の一途であったのだ。明らかに上昇気流の織田信長に勝機があったのだ。つづく。1月6日。

●「大間の本鮪、269キロが5649万円で落札」。恒例の築地市場の初競りでの、有史以来の世界最高額の鮪の話だ。購買者は、村上龍の「日経スペシャル カンブリア宮殿」に出演(テレビ東京、平成21年11月2日)したこともある(株)喜代村が運営する寿司チェーン店「すしざんまい」(関東中心に31店舗)の木村清社長である。昨年の今日は、同市場で北海道・戸井産の342キロの本鮪が3249万円であった。共同で買ったのは銀座・久兵衛と国内や香港でチェーン展開する「板前寿司」で、半分分けした。「板前寿司」は都内に6店舗を展開し、銀座8丁目に2店舗、「銀座コリドー店」と「銀座ウォ―タ―タワー店」が近座している。後者が後からできたようで、通りから店内が丸見えの前者は最近、客入りが少ない。久兵衛は商売上手のようで何時も満席だが、小生的にはおススメではない。所謂高級鮨店ではない寿司屋で、銀座で最も繁盛している店は、何と言っても梅丘寿司・「美登利 銀座店」だ。いつもいつも、外の椅子に座って、いや座りきれずに10~20人が列をなしている。小生も一度、昼間の閉店間近に用足しを兼ねて入店したが、接客も宜しく、ネタと料金のバランスが良い。俗に言う、CP(コスト・パフォーマンス)がリーズナブルってことだ。築地市場の場内・場外も悪くないが、清潔や衛生を言えば、美登利に軍配があがるな。今回の史上最高値の鮪も1貫が128~398円(消費税抜き)の通常価格というから、太っ腹だ。ニュースに取沙汰されるから、5649万円は広告料としては安いのか。果ては、不景気でヤケッパチか。これに在り付けた人間は幸福者だ。正直、恨めしい~ってやつだ「すしざんまい」で今日の鮪のトロを1人で3貫以上食った、「ざんまい」(三昧)な野郎は今後鮨を食うべからず。鮨とはそういう流儀だ。1月5日。

三方ヶ原の戦い」は天下を狙う武田信玄が1572年、清州同盟で信長方につく家康の領地・浜松を攻めた戦いである。信玄は浜松城の支城・二俣(ふたまた)城を落とすのに思いのほか時間がかかり、家康の居る浜松城を横目にそのまま西上しようとしたため、「多勢に無勢」と、留まることを進言した家臣の説得を聴き入れず、「部門の恥」として家康は2万5千の武田軍を追ったが、こてんぱんに撃破された。浜松城まで6キロの大敗走の中、「家康は馬のたてがみにしがみついて、逃げに逃げた。逃げながら、恐怖のあまり馬上で脱糞していた。天下をとったあともそう伝えられたのだから、これは事実なのだろう。」(既出の「家康の仕事術」より、46ページ)。信玄は、翌年没し、武田軍は甲斐に引き返したため、信玄の天下の夢は断たれた。その後は1575年の勝頼と織田との「長篠の戦い」へと続く信玄が生きていたら、信長に代わって天下取りだった可能性が大???つづく。1月5日。

お市(1547?~1583)は信長死後の1582(天正10)年、秀吉の仲介で柴田勝家と再婚。1583年、勝家が秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、勝家と共に越前北ノ庄城内で自害(享年37歳)。浅井長政とお市の長女・茶々(淀君)(1569~1615)は秀吉の側室となって秀頼を産み、大坂夏の陣で家康に敗れ、秀頼と共に自害。二女・(1570?~1633)は従兄妹(浅井長政の姉の子息)である京極高次の正室となり、東軍に味方して若狭一国を与えられ、小浜藩主となった高次の死後は出家して常高院を名乗った。豊臣方の茶々と徳川方の江との仲介に奔走した(崇源院)(1573~1626)は、秀吉の養子(甥)・豊臣秀勝との婚姻の後、徳川2代将軍・秀忠の正室(継室=後妻)となり、3代将軍・家光や中宮源和子らを生んだ。江の血筋だけが現在に続く複雑な系図だが、浅井長政とお市の方、否、信長家の遺伝子は上質であったのだな。将軍家であっても再婚なんぞ日常茶飯であったのだな。現在の良家では考えられないことだなつづく。1月5日。

姉川の戦い」は信長が義弟の裏切りに激怒し、朝倉・浅井両氏を撃破した1570年の戦である。信長擁する室町幕府十五代将軍・足利義昭が越前の朝倉義景と組んで不穏な動きを見せたことが発端。三万の軍を率いて出陣したが、あることか、妹・お市の嫁ぎ先である浅井長政が信長を裏切った。裏切りと言っても、越前国(福井県)の朝倉氏と近江国(滋賀県)の浅井氏とはそれ以前より親密な関係にあったのだが・・・。これにより、一時京へ引き返し、再度両氏の討伐のための戦が「姉川の戦い」である。この戦いで劣勢の織田勢を戦法で打開したのが家康なのである。お市はあの「茶々」・「初」・「江」の母親。敗れた長政とその父・久政は自害。信長は、長男は殺害したが、次男は出家させた。妹のお市と茶々ら3人の姪は信長に厚遇された。戦国とは冷酷無残な時代だつづく。1月4日。

●警視庁の体たらく、何というザマだろう。特別指名手配の容疑者が出頭してきたのに、悪ふざけと無視。口蹄疫を見逃したどこかの公務員に匹敵する醜態だ。危機管理意識の欠如にも程というものがあろう。最近は「分限免職」という耳慣れぬ単語が飛び出してきたが、これは公務員に対する「身分保障の限界」という意味で、こんな勉強不足で職務怠慢な公務員は上司を含め、この処分に該当しよう。即刻、クビだ。1月4日。

●「大権現さま」の「大々略年譜」。1542年、三河国岡崎で誕生(幼名は竹千代、姓は松平)。1547年、今川義元人質として駿府に向かう途中、家臣・戸田康光に欺かれ織田信秀に売られる。1549年、今川家軍師に奪還され今川家の人質となる。父・広忠が近臣に暗殺される。1555年、14歳で元服。1557年、瀬名姫と結婚。1558年、17歳で初陣。元康と改名。1559年、18歳で長男・竹千代(信康)誕生。1560年、桶狭間にて織田信長の奇襲により義元敗死。今川家から独立し、岡崎城に入る。1561年、20歳で三河平定に着手。1562年、信長と清州同盟を結ぶ。1563年、家康と改名。1564年、三河一向一揆を平定し、三河全域を支配。1566年、徳川姓に改める。1570年、浜松城を築城し拠点とする。信長と共に姉川の戦い浅井・朝倉氏を破る。1572年、遠江(とおとうみ)侵略を進める武田信玄を迎撃するも大敗(三方ヶ原の戦い)。1575年、信長・家康連合軍武田勝頼率いる武田軍を長篠の戦いで破る。つづく。1月3日。

今日は、なぜにか大晦日に壊れた電気スタンドを求めに近場の電気店へ。完全にいかれてはいないのだが、5分ほどでツンと音を立てていきなり消える。何度試しても同じである。まる2日間は連合いのものを拝借して用を済ましていたが、どうも小型過ぎて照度が足りない。目が疲れて事が進まないのだ。唯でさえ出不精者が、正月2日の初商から大物を買うとは52年の人生、生来初のことだ。正月は精々(せいぜい)コンビニでカップヌードルの類を買うくらいが関の山。もう、かれこれ10年も15年も使い古した代物だけあって少々未練が残る。新しいものが必ずや良いものとは限らないのがこの世の常。物とも愛着が行き逢うのだろう。この話は決して大袈裟ではない。小生は生れて此の方、初詣も初商も一度も行ったことがない、行こうと思ったこともない、正真正銘の出不精で、不信心で、筋金入りの正月嫌いなのだ。ホッホッ、居酒屋などの呑み食いは別だが・・・。1月2日。

もっと核心を衝くと、最近、高齢者ばかりでなく生活保護受給者の過剰な病院受診が問題視されている。生活保護受給者の中には若者も居れば、充分に健康な人も少なくない。同じく、失業保険受給者もバイトで稼ぐことを原則禁止されている。こんな馬鹿な制度があろうか。生来の怠け者は少ないと信じている。制度が若者を怠けもの化している。憲法でも謳っているではないか、勤労の義務を・・・2012年3月11日は震災から1年、もうそこだ。※「日本国憲法における国民の3大義務」は「教育の義務」(26条2項)・「勤労の義務」(27条1項)・「納税の義務」(30条)であり、働きたいのに働いてはいけない制度こそ憲法違反。無論、働かないと納税も出来ない。1月1日。

例えば、年金制度の一元化であれ何であれ改革が断行され、その理念と平等性が担保され、かつ運営にまやかしがないことが周知されたとしよう。然らば、年金受給資格のある高齢者であっても、自身の給与や預貯金が十分であれば年金の受給を受けずに、若い人の負担分に回して欲しいという人が居ても不思議では無い。実際そういう話を見聞した。受け取らない年金が何処で、誰の権限で、誰に、どんな要件に使われるか全く珍糞漢であり、現状ではそういう観念すら無い。これはシステムの問題であり、政治でしか動かすことのできないことだ。日本国民はそんなに無慈悲ではないであろうことを信じている。政治だ、政治家だ、良識ある国民の声だ!!!つづく。1月1日。

2012年の幕が開いた。ただの年明けではない。震災と原発惨禍に打ち勝つ道標を創造し、その確実な一歩を踏み出す年明けだ。東京電力とその他の電力会社の原発部門を国営化(国の管理下)し、原発の完全廃止に向け舵を取る。放射能汚染で住めない区域、或は住みたくない住民の移住に要する費用や限定期間での金銭的補償。何はともあれ、失業者に対して生活保護を渡すのでは無く、仕事を供給する。高台への移転集落や漁港などの臨海開発地域をモデル事業として、1ヵ所でもいいからなるべく早く着工する。被災地以外の全国民はオールジャパンで復興支援する。そのためには、先ずは国民全員が就労し、汗を流して稼ぎ、消費を促す(デフレ脱却)ことが先決問題であることを強く認識することだつづく。1月1日。

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