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壺中の別天地-その5・青森篇-

 9月の旅は、「北のまほろば」でした。むろん「南のまほろば」のすばらしい国は「大和」です。北は、司馬さん的には「三内丸山」の青森県だったのでしょう。今回も「街道をゆく」を辿ってみました。
 羽田経由の青森空港→レンタカーを借りて三内丸山遺跡→金木の斜陽館→青森市内の棟方志功記念館→居酒屋→「津軽海峡冬景色」の青森駅→新幹線とレンタカーで岩手・平泉町の中尊寺・義経堂→銀座・・・の旅行脚でした。

●三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は青森市大字三内字丸山の地名が由来。青森空港と青森市街の間にあり、空港から車で10分と近い。遺跡の存在は江戸時代(弘前藩)から知られていたが、県営野球場の建設の際にその規模の大きさが判明。大型竪穴住居が10棟以上、約780軒の住居跡が確認された。今から遡ること5500年前から4000年前の1500年間の縄文時代の集落跡である。縄文時代は世界的には新石器時代である。土器の出現が新石器時代であり、今から約13000年前から稲作伝来の約2300年前までの、約10700年間を云う。由来は土器に縄文模様があるため。3枚目の写真は、集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋として活用されたのではないかと想像されている「大型竪穴住居」。4枚目の写真は、大型掘立柱建物(六本柱建物)、穴の大きさと深さは2メートル、柱の間隔は4.2mであり、「縄文尺」(35cm)が使用されていた。この尺度は他の遺跡でも確認されている。その穴に残された栗の木の柱。残った柱には1mのものもある。復元の柱も栗の木ということだが、こんな巨大な樹齢の木が果たして今の日本に存在するのやら・・・いろいろと疑問も膨らみましたが・・・深堀はしません。耐久性を増すために表面を焦がしてもいるそうです。7枚目の写真は高床式掘立柱建物です。これももちろん想像の復元物ですが、柱自体がどっしりと重厚で、今風のログハウス様であります。避暑地としてこのままでも利用したい気分であります。8枚目は竪穴建物で、屋根は萱や樹皮や土などで葺いてあるようです。三内丸山遺跡の最大の特長は、稲作伝来のはるか遠い昔にこの日本で、栗を植林し、大きな集落を形成し、狩猟や漁業をしながら、1500年もの間、定住生活をしていたことです。その世界的にも発達していたコミュニティ-が突如、崩壊したらしいのですが、それは謎のようです。司馬さんはこの遺跡が発見されるや、居ても立っても執筆もできずに、この地へすっ飛んできたそうです。遺跡発見のニュース第1報は1994年7月17日の朝日夕刊。司馬さんがここに立ったのは同7月22日と云う。司馬さん他界の1年半前のことです。写真は史跡の縁(発掘途中と思われる)の栗の木とその実。

●斜陽館
太宰治(1909~1948)の生まれる2年前に建造された津島邸は、人手に渡り旅館などを経て1996年、金木町が買い取り、現在の「斜陽館」となる。大地主で金貸し(金融)業を営んでいた豪奢な国重要文化財である。ここの6男として太宰(津島修治)は生まれ育った。床板は黒光りし、ツルツルで、軋んだ。2階に、れいの芥川賞を懇願する佐藤春夫への手紙なども展示。こと感銘したのは、太宰の子守をした「越野タケ」という女性。太宰は昭和19年、津軽の風土記の執筆を依頼され、3週間の故郷旅をした。それが「津軽」である。「たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、・・・・・・」(新潮文庫・p207)。30年ぶりの再会場面は涙の物語。『たばこも飲むのう。さっきから、たてつづけにふかしてる。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは教えねきゃのう』と言った。」(同p208)。太宰35歳、たけ46歳の、木造町の運動会の日の会話である。太宰は11人兄弟姉妹の10番目。父は多忙で、母親は病身。「私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐに乳母に抱かれ、・・・夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮らしたのである。・・・そうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。」(同p189)」。両親の愛情不足、よりも酷なネグレクト(この時代の分限で子沢山の家では決して珍しいことではない)の情況で育った太宰。家の格柄と両親の愛情不足が太宰の文学を生んだと言えばそれまでか。私は、大学の一般教養で文学を選択し、その教授の専門が「太宰」でした。今なら一端のレポートが書けそうな。今回、一度書いた写真附文を消去したのは、いとも簡単に太宰をスルーするのが憚られたから。11枚目の写真は「太宰ラーメン」。太宰の好物、若竹汁から。12枚目の写真は斜陽館から青森への復路、車中からの岩木山。津軽平野のどこからでも津軽富士を拝める。それが本当だと信じるくらいに津軽の平野はどこまでもだだっ広く、一新ものでした。13枚目の写真は往路車中からの林檎園。「故郷の匂いのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて・・・」(同p45)。青森県の林檎生産額は1000億円を超える、と翌朝の地元紙一面にあった。

●棟方志功記念館
14、15枚目の写真は青森市の棟方志功記念館。私は、志功の作品は何百と見ているし、手持の柵もある。二菩薩釈迦十大弟子・厖濃の柵に、「わだば日本のゴッホ」にした若描の向日葵などが展示。

●青森駅
最後2枚は東京駅顔負けの超ナガの青森駅跨線橋。撮影場所はその中間点から左右。

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