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壺中の別天地-その6・広島篇-

広島市原爆投下は昭和20(1945)年の8月6日、午前8時15分です。その年の12月までの死者は約15万人、被爆者は56万人を数えました。マンハッタン計画によって、マリアナ諸島のテニアン島を離陸したB-29(エノラ・ゲイ号)は約7時間の飛行を遂げ、広島上空に至りました。途中、四国上空で日本のレーダーに発見され、日本軍の戦闘機の追跡と射撃をうけましたが、巧くかわして、目標地点である相生橋(本川=旧太田川と元安川の分岐点)上空約1万メートル(9632m)から「リトルボーイ」を投下しました。43秒後、「リトルボーイ」は目標から少し外れた島病院(現島内科)の上空約550メートルで核分裂爆発したのです。今回の広島訪問後、直ぐに10年前の子供の中学と高校の社会の教科書を捲って見ました。写真付きでありますが、原爆についての記述は1ページ未満でした。連合軍(アメリカ)が原爆投下に至った経緯については何の記載もありません。10年経った今、教科書の内容がどうなったのか、暇を見つけて市内の教科書販売店に行ってみます。なぜ広島が狙われたか。当時の広島は戦艦造船や軍需品製造の基地であり、多くの将校が住み、軍人はここから戦地に向かい、そして帰還して来ました。敵にとって許しがたい日本の軍需工場の拠点だったのです。また広島は、元は湾であり埋立地であります。今も地下鉄ができないのは地盤が弱いためです。弱い地盤のため当時の建物は多くが木造で、高さもせいぜい3階でした。これは原爆の熱線によって延焼しやすいということです。以下は乗せてもらったタクシーの運転手さんが話してくれたことですが、「広島駅前に今も残る100メートル道路は、敗戦を覚悟した日本軍の司令官ら将校が、ここから飛行機で脱出すらための専用道路として造ったもの」だそうです。一度も使用されませんでしたが。つづく。1月28日。

●次に狙われ投下されたのは長崎市です。1945年8月9日11時2分、市街中心部から3km逸れて、松山町171番地を爆心地として約500m上空でプルトニウム型原子爆弾=「ファットマン」が炸裂しました。高度9000mのB-29搭載の「ファットマン」は同10時58分に投下されたのです。長崎は「武蔵」はじめ多くの戦艦を造った造船所があり酸素魚雷基地もありました。そして針生電波塔を有し、これは戦時の重要な情報基地でもありました。実は、この長崎は第1目標ではなく第2の標的地でした。テニアン島を離陸した「ファットマン」は同9時44分、第1目標地の小倉陸軍造兵廠上空に達しました。小倉とその周辺の八幡をはじめ今の北九州市は軍需工場の拠点であったのです。それから45分間、「ファットマン」は目視によって3度の爆撃航程を行ったが失敗し、遂に天候悪化と燃料費消の嵩みが原因で小倉上空での原爆投下を断念、長崎へ向ったのです。目視が不可であった天候悪化以外の原因には、前日米軍が行った八幡市空襲の残煙による霞や、八幡製作所の従業員が新型爆弾投下の警戒からコールタールを燃やして煙幕を張ったとの証言があります。その他、日本軍高射砲からの対空射撃の激化や、芦屋飛行場からの五式戦闘機や築城基地からの「ゼロ戦」10機の緊急発進も挙げられています。いずれにしても戦争に大きくかかわり、当時人口が多かった都市(当時の長崎市人口は福岡市、八幡市に次ぐ九州第3位)を狙っての原爆投下と云うことです。つづく。1月29日。

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