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今週のつぶやき親仁・2019年11月10日(日)~11月16日(土)

●大分といえば、椎茸に柚子に別府温泉に湯布院に天領日田に岡城址に・・・・・・大友宗麟などなど。そう大友宗麟は耳川の戦(1578=天正6年・大友軍は3000人近い戦死・宗麟は単身、豊後へ敗走)で島津に敗れ、大友氏はその後間もなく没落した・・・・・・キリシタン大名である。大友宗麟は剃髪後の名前で、元は義鎮(よししげ)。この大大名は日向の国と関係が深い。当時の日向の国を治めていたのは伊東氏。島津と大友に挟まれて弱者の伊東氏がいたのだ。その伊東氏の所領だが北は高千穂から南は日南まで(むろん都城周辺は島津・小林は伊東氏)、今の宮崎のほぼ全県にまたがっていたのだ。その伊東氏を調査している中で、「伊東48城」のうちの一つがわたしの出身地の神門にあったとあることに感激。以下、その周囲を調べてみた。そもそも伊東氏とは・・・・・・(以下、Wikidediaより)。
日向伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、建武2年(1335年)に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛てがわれて下向したことに始まる
一時は島津氏との争いに敗れ、日向を追われるが、伊東祐兵が豊臣秀吉の九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により飫肥の地を取り戻し、近世大名として復帰を成し遂げた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵が大坂で病を得ていたため、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃、事無きを得た
元和3年(1617年)、2代将軍・徳川秀忠より飫肥藩5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。以後廃藩置県まで一貫して14代にわたり伊東氏が飫肥藩主を務める
つづく。11月15日。

秀吉の赤頭巾に赤ちゃんちゃんこ・・・・・・写真(日本の写真の祖は長崎の上野彦馬です。幕末の譚です。)が残っているわけはないのですが、後世につくられた秀吉のイメージとは恐ろしいもので、「還暦」と聞くだけで秀吉の間抜けな「バカ殿振り」が頭に浮かぶのは・・・・・・私だけでしょうか。戦国時代に「還暦」祝が存在したのは確かですが、赤い頭巾に赤い羽織を着ていたかどうかは、要調査事項です。とまれ晩年の秀吉は無謀な朝鮮出兵を強行するほどに「認知症」が進んでいたのではないかと言われています。秀吉は1536年もしくは1537年生まれで、1598年が没年です。文禄の役(1592~1593)の時は56歳頃ですが、慶長の役(1597~1598)の頃は還暦を過ぎています(62歳没)。天才も歳には勝てず、バカ殿になっていたのです。そのバカ殿の赤いちゃんちゃんこが何故かすっぽり似合っているのが・・・・・・親仁には許容できないのであります。要はまわりに馬鹿に虚仮にされているのでありますから。呵呵!!! ついでながら秀吉の推定死因は腎虚(房事過度)、認知症、消化器癌(疑い)のようです。(篠田達明著「日本史 有名人の臨終カルテ」pp144~147・新人物文庫)。→真剣に読んではいけない本ですぞ。11月10日。

●ついでに「還暦祝」に関連した「ちゃんちゃんこ」について・・・・・・嫌味をひとつ。「ちゃんちゃんこ」の語源は諸説あるやに思われますが、江戸時代、中国の袖なし羽織を身に着けた子供が江戸の街中を鉦を鳴らしながら、飴を売り歩いていたことから、その「袖なし羽織」を意味するようになったのが、一般的のようです。日本の還暦祝の始まりは奈良時代(当時は40歳が「賀の祝い=長寿の祝い」の最初で、その後10年毎に行われた)からだそうで、室町時代に60歳が定着したようです。それではなぜ頭巾やちゃんちゃんこなどの贈り物が赤色かというと、かつては魔除けの意味で産着に赤色が使われており、60歳で生誕時の干支に還るという意味で、この慣習があるのです。つづく。11月10日。

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