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江戸にみる「美しい日本」・その1(教育事情)

  小生は日頃より、歴史に多少の興味があり、年代を記憶することが楽しみの一つだ。周知の如く、日本国が最も平和・平穏で、かつ文化が創造・醸成された、絢爛の時代は江戸時代(1600または1603-1867)だ。江戸時代について暇を見つけては調べると、殺伐とした現代日本が今後目標とする国造りの見本として、見習うべき点が多々あることに気づく。幾つか挙げてみよう。

  「芭蕉翁ぼちゃんというと立留り」。

  現代人に人気の俳諧ベスト2は、正岡子規(1867-1902)の「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」と、松尾芭蕉(1644-1694)の「古池や蛙飛こむ水のをと」という。芭蕉はこの句で当時の庶民に「音」という新しい感覚表現を教えた。

  芭蕉爺(じい)さんが、深川の「芭蕉庵」辺りを散策でもしていたのであろう。芭蕉を知る者が擦れ違い様に、蛙が池に飛び込んだ時の水の音・「ぼちゃん」を口で真似た瞬間、耳がまだ達者であったろう芭蕉はそこらに蛙が居るものと思い、歩くのを止めて辺りを見回したのだろうが・・・・・。この川柳には当時の「ゆったり」かつ「ほのぼの」とした光景の他に、芭蕉に対する畏敬の念が垣間見えるから、不思議で面白い。

  芭蕉爺さんが、江戸時代に中国由来の品種から作出した「狆」(チン)を連れて散歩していたら、これまた「珍事」でもあるまい。現代には無い「ゆたァー」とした時の流れが羨ましい。

  次に「寺小屋」(手習所=てならいどころ)である。

  江戸の「寺小屋」は全国津々浦々に、推定で5万箇所以上あったという。現在の小学校数は2万3000校だそうだ。規模は数名~数百名、2階建てで数棟もあるものまでまちまちであった。入学年齢やその時期、在学期間、指導方法や教科・・・・・登校時間など師匠によりまちまちであったとされる。多くは自習形式で時に個別や一斉指導があった。算盤(そろばん)や謡曲、裁縫、漢籍(中国の書物。中国人が漢文で書いた書物)なども教えたというから、現代にも無い「総合塾」であった。

  興味深いのは、先輩が後輩に教えたり、一般の大人、例えば旅館(旅籠屋=はたごや)の女将や大工などが仕事上で必要に迫られた場合、勉強(特に読み書き・勘定)したければ自由に門戸が解放されていたというから、凄くて驚きだ。だから、江戸期の日本人の識字率は世界一であった。

  師匠との関係は親子以上で、師匠は地域の最も尊敬された職業であった。今でいう地域の「子育てネットワーク」も自然と整っていた。人々の縦なり横なりの繋がりも自然と密で強かったのだ。

  意外や意外、教育法は当時フランスなどヨーロッパのスパルタ方式ではなく、トクトクと説き教える教育法であった。これらを裏付ける絵・資料も多く残されている。
 
  小生が小学生の頃、夏休みは毎日、朝の6時半から部落単位の集合ラジオ体操があった。ラジオの電波が悪い日はテープを流していた。早寝早起きだ。安井息軒(清武町出身、1799-1876)の3計の訓(おし)え・・・1日の計は朝(あした)に有りだ。10日に1回は部落(小字)の寺小屋風の公民館(山口県萩市の松下村塾=1856年=安政3年開塾と同等位の古びた建物だった)で、小学1年生から中学3年生全員が集い、長い木机を並べて、午前中いっぱい勉強を教え合った。床は勿論、板に茣蓙(ござ)敷きであった。「夏休みの友」も先輩に習って片付けた。現在のような塾も無く、親は両方とも稼ぐのに精一杯で、子供の勉強の手伝いなどトンでもない時代だった。

  未だ嘗て、小生の生まれ育った村には塾が存在しない。否、否、江戸時代には5万分の1の立派な「寺小屋」なる「塾」が存在したのだ。そうに違いあるまい。あの小学校時代を時に懐かしく思う。教わった先輩達の御健勝を祈ろう。

  ここで実際にあった笑い話を一つ披露しよう(小生の身近な実在の人の話なので、本邦初公開)。今の国会議員の中には、故・松下幸之助(1894-1989)氏が開いた「松下政経塾」の卒塾者が何人かはいる。ある東京の青年が、萩市観光で吉田松陰(1830-1859、安政の大獄で処刑)開塾の「松下村塾」を見て、その貧弱さ・みすぼらしさに、「松下幸之助もドケチで大したことねェなー」と割合に大きな声を発したらしい。物事は見た目では無い。培われ、育成される精神(魂)が重要で、決して見て呉れ(外見)ではない。

   つづく。

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