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今週の親仁ギャグ・2019年8月18日(日)~8月24日(土)

●ここでの最終着地点は、山本五十六元帥の最後です。先の河合継之助記念館での質問2であります。「山本五十六は、米軍に撃墜されることを覚悟でラバウル飛行場を発ったのでしょうか」との問いに、質問1(長岡空襲のこと)と同じ学芸員(ボランティア?)さんは「同感」してくれました。南雲忠一中将が山口多聞少将の進言を却下した理由は下記の通りでしょうが、要は、中将は敵の攻撃に第二波攻撃隊の出撃(空母艦上からの離艦)が間に合うと考え、それとは反対に少将はそれが間に合わないと思ったのであります。結果はそれが間に合わなかった・・・・・爆弾や魚雷を搭載した艦上の航空機に、敵の爆撃が命中した・・・・・・のでありますから、大爆発が起こり、その後の結末は火を見るよりも明らかです。その上、空母の上空ではミッドウェー島への空襲を終えて帰還した航空機が艦上着陸を待っていたのであります。燃料切れで墜落したことになります。つづく。8月23日。

●ミッドウェー島への空襲開始の午前3時30分から時間を置かずして、6月5日午前4時15分、南雲中将は空母各艦へ、「第二次攻撃隊を編成し、兵装を戦艦への爆弾や魚雷から(空襲の)爆装に転換」することを通達した。が、時すでに遅く、敵の空母「エンタープライズ」と「ホーネット」、「ヨークタウン」から日本艦隊を攻撃するための航空機152機が出撃し、海戦としてはアメリカ軍の先制攻撃で幕を開けた。それに遅れること13分の、同4時28分、ついに日本艦隊も敵艦隊を発見する・・・・・・のだが、南雲機動隊はいささか動揺した。このアメリカ航空隊第一波攻撃による日本側の損害は大したことはなかったという。ところがだ、ミッドウェー島空襲から帰還した第一次攻撃隊は、兵装転換によりマチボーケをくらうこととなり、「飛龍」と「蒼龍」を率いる山口多聞少将は南雲中将に対して、「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルを至当ト認ム」と進言したのだが、南雲中将はそれを却下。すなわち空母艦上の攻撃機は、陸用爆弾から、魚雷や対艦爆弾(250kg)への再度なる転換作業をしたのだ。南雲中将の却下理由(Wikipedia参照)は・・・・・・
九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である。
第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である。
敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るためにほとんど発進しており、一度着艦して補給する必要がある。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない。
戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない・・・・・・
という理由から。この時の兵装転換がなければ結果が変わったとされる”運命の5分間”説なるものがあるが、歴史の今の見解は、どちらにせよ攻撃隊の発進は敵攻撃に間に合わなかったというのが定説・・・・・・とのことである。つづく。8月23日。

ミッドウェー海戦までの連戦連勝・・・・・・不沈艦「大和」に座乗する山本五十六も、南雲忠一中将率いる機動部隊の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の航空機は、1942年6月5日午前3時30分、ミッドウェー島を空襲するため出撃したのだが、アメリカ軍は海上戦を作戦していた。すなわちアメリカは艦隊を組んで空中戦と空爆戦を計画していたのである。日本の連合艦隊は、それまでの連戦連勝に慢心していたのか、事前の潜水艇哨戒などによる敵の位置や行動など、事前の状況把握が不十分であったのだ。ましてや暗号は解読され、日本の作戦は全て丸裸だったのであろう。要は、アメリカ艦隊の発見に至らないまま、ミッドウェー島への空襲を開始したということである。このミッドウェー島への攻撃で、日本のゼロ戦は島の戦闘指揮所はじめとして基地施設を破壊し、迎撃機も撃墜したのだが・・・・・・南雲機動部隊が第二次攻撃の準備中、アメリカ艦隊に日本艦隊が発見され、これが不幸の始まりとなったのである。つづく。8月23日。

●1941年12月8日の真珠湾攻撃(パールハーバー・アタック)から1942年6月5日のミッドウェー海戦までの、あまり知られざる幾多の海戦・・・・・・マレー沖海戦(1941年12月10日)、ウェーク島沖海戦(1941年12月8日~23日)、バリクパパン沖海戦(1942年1月24日)、エンドウ沖海戦(1942年1月27日)、バリ島沖海戦(1942年2月19~20日)、(アメリカ本土攻撃(1942年2月24日~9月29日))、スラバヤ沖海戦(1942年2月27日~3月1日)、バタビア沖海戦(1942年3月1日)、セイロン沖海戦(1942年4月5日~9日)、珊瑚海海戦(1942年5月7日~8日)・・・・・・そして問題のミッドウェー海戦ということになります。何が問題かというと、言わずもがな、それはそれまでの連戦連勝から一転、大敗北し、それ以後の連戦連敗、そして敗戦となったのであります。つづく。8月23日。

山本五十六記念館は、鹿児島・知覧の特攻記念館と同様に厳かな雰囲気。(広島の原爆記念館も、かつてはそうだったのでしょうが、昨年の訪問時は、インバウンドの方々が多く、携帯のシャッター音など場所にふさわしくない雑音も多々でしたが・・・)。五十六記念館は河合継之助記念館の次に訪問したのですが、継之助記念館はどちらかと言うと観光客も和気あいあいの雰囲気で雑談よろしく、花火打ち上げが始まる前の時間潰しと涼みを求めてのようでもありました。その継之助記念館で、ボランティアか学芸員の男性に、「長岡が空襲を受けたのは山本五十六の出身地だったからですか?」と訊ねたんですが、その応えは、「否、長岡が新潟についで街が大きかったことです」・・・・・・でした。真珠湾を奇襲した総司令官の山本五十六への復讐ではなかった・・・・・・と、明確な返答でした。つづく。8月23日。

●太平洋戦争(第二次世界大戦)の命運が分かれ、日本の負け戦が決定的になったのが、ミッドウェー海戦。ミッドウェー島攻略をめぐり、大日本帝国海軍連合艦隊とアメリカ海軍太平洋艦隊が激突した大規模艦隊戦である。ミッドウェー海戦(1942年6月5日~7日)の総指揮官は、山本五十六元帥はじめ、南雲忠一、近藤信竹。参加した空母は、鳳翔・瑞鳳・赤城加賀飛龍蒼龍の6隻。戦艦は、大和・長門・陸奥・日向・
伊勢・扶桑・山城・榛名・霧島・金剛・比叡の11隻。重巡洋艦は、利根・筑摩・愛宕・鳥海・妙高・羽黒・熊野・鈴谷・最上三隈・の10隻。その他、7隻の軽巡洋艦、駆逐艦は54隻、潜水艦23隻(「伊168」)、水上機母艦3隻、工作艦1隻・・・・・・まさに大艦隊であったのだが・・・・・・赤城・加賀・飛龍・蒼龍の4空母が沈没・・・その他、三隈が沈没、最上と伊168が大破・・・・・・などの大敗であった。戦死者は3057名(航空機搭乗員の戦死者は110名)。つづく。8月18日。

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