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今週の親仁ギャグ・2015年12月20日(日)~12月26日(土)

●ラーメンに「通」はありなのか。お好み焼や蛸焼に続いて、今年はラーメンがミシュラン☆になった。たしか「蔦」という東京・巣鴨の店だったか。2号店の『蔦の葉』は行列に対する苦情で休店という。東京人は2時間でも3時間でも並べる人種だ。宮崎で行列のできる店は、恒久のラーメン『○』とフルーツパフェの『フルーツ○○』ぐらいしか知りません。居酒屋でもよくラーメン屋の話題がのぼりますが、結論は「好き好きですよね」とか「宮崎はトンコツ主流だから私はどうも・・・」なんてとこに落ち着きますが・・・。たけしの弁・・・「道徳っていうのは、つまり誰が、どんな気持ちで話すかが重要なのだと俺は思う。昔、俺の母親は、いろんなことを俺にいった。たとえば、行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しいとか。なぜそうなのかなんて理屈は、あんまりいわなかった。それでも、その母親の一言のおかげで、俺は行列に並べない大人になった。だから今でも、ラ―メン屋に行列ができて、2時間も並ばなきゃ喰えないなんて話を聞くと、『馬鹿じゃねえのか』なんて口ではいっているけど、本心をいえば、そんなに並んでまでみんなが食べたいっていうなら、俺もちょいと食べてみたいと思わないでもない。それだけ評判なら旨いに決まっているじゃないか。それでも、やせ我慢して行列には並ばない。誰かに頼めば、もしかしたら並ばなくても喰わしてもらえるかもしれないが、そういうこともなんだかみっともない気がしてやらない。それが、いいことかどうかはわからない。ただ、母親の『行列に並んでまでモノを喰うな』という”道徳”は、しっかり俺という人間に染み込んでいる。」(北野武著「新しい道徳」・p43・幻冬舎・2015)。孤独のグルメ氏の弁・・・「ことラーメンに関しては、あまり高い店はどうも信用できない。ラーメンは、ある程度安いのがいい。安いなかで、安いなりの工夫をしてるラーメンが好きだ。・・・ラーメンに、知識や理屈や経済が入ると、どんどん楽しくなくなる。ラーメンは大人のオヤツ、大人の駄菓子、というポジションのほうが俺は好きだ。」(久住昌之著「食い意地クン」・p23・新潮文庫・2013)。「並んでまでモノを喰う」のを不道徳と考えるのはどう理解すればいいのか。「母さんだってお前たちのために毎日一生懸命に食事を作っているのに、他人が作ったものを並んでまで喰うとは何事か。それに第一、公衆の面前で飢(かつ)えた勧進みたいに無表情の阿保面でタチンボするなんて卑賤を丸出しじゃねえか」とたけしの母親は思想していたし、彼女もそのように道徳教育されたのでしょう。ミシュランであるからして、一つ星ラーメン屋ではグラスワインをチンなんて鳴らして、汁を啜り、麺を掻き込むのでしょうか・・・ミシュラン人(見知らぬ人ですよ)でなく知人にでも盗み見されたら・・・と想像しただけで目から星が出そうです。ラーメンごときで「通」ぶるオヤジなんて下衆でしょうし、そもそもラーメン屋自らが「通もオススメする店」なんて宣伝するのは気が触れてます。日本のオヤツか駄菓子の分際が星ひとつなら、次は笊蕎麦か天麩羅蕎麦か、はたまた具入饂飩なんてのがミシュラン入り?と考えたら、タイヤ会社の悪乗りじゃないか。12月21日。

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